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 敵の放った矢は、ジャンヌの左胸の乳房の上から、急所を外れて背中にまで貫通していた。それが傷にとって良かった。ジル・ド・レが言われた通りジャンヌの肩をしっかりと抱きとめると、ラ・イールはまず矢の羽根を折り、それから背中に向かった鏃を強く引いた。折れた矢の芯がジャンヌの乳房の中に消えてゆき、それから痛みが彼女の肉体を通過した。その瞬間、娘の露わになった白い乳房の上に数滴の鮮血が迸り、それがすでに立派な大人のものに熟れ始めている若い乙女の胸の曲線にそって、すーと流れ落ちた。

 改めて傷の痛みが走り、その苦痛にジャンヌは思わず眉間に苦悶の筋を浮かべた。

 

「先ほどの涙は消えたが、今度は矢の痛みが残ったかね?先ほど流した痛みの涙とは何か別の種類のものかね・・とにかく我慢しろ!」彼女の身体を抱きとめていたジル・ド・レが、その時こういう意味不明のことを話しながら、ニヤリとした笑いを浮かべたのをジャンヌは見逃さなかった。

「こんな傷がなんだ、痛みなどはもう、すべて消えたぞ!さあ、私を早く戦場に行かせろ!」

ジャンヌは、美しい顔立ちのジルの言葉が、妙に癪に触った。

 男勝りに振る舞う鼓舞の心、神への疑いを一瞬とはいえ抱いてしまった不信心と、こうして胸を露わにされた娘の羞恥の、そのどれもがこの青年だけには見透かされているようで、ジル・ド・レのその一言は彼女の胸の奥深く、皮肉とも嘲りとも聞こえて、その後の彼女の人生にも深く忍びこんだ。

 今まで多くの人間たちの前でーあのポワティエの宗教審問では、彼女が生の処女であるかどうかを証明するために、布で隠しているとは言え、尼僧や貴婦人の前で若い女性の秘部までを晒し、検分されてきたジャンヌに取ってみれば、他人からの好奇な干渉など、神の契約の前ではまったく意に返していなかったのである。しかし、今のジルの言葉には彼女が意識したことすらないある種次元の違う推察の目が向けられているようで、それが堪らなかった。火照る頬が、恥ずかしさの為に赤く燃え上がっているのではないかと思った。この若き騎士だけは私の涙の真の訳を知っているのではないか?ふと、思った、私が神を疑ってしまったという不信への後悔で流す涙、その真意を!

 その時、彼らの傍にいた兵士の誰かがこれを傷口に塗るといいといって薬をさしだした。

「それは何だ?」とラ・イールが叫んだ。

 彼女は一瞬、この兵士の申し出に、自分の心が救われたように思った。だが、

「魔法の秘薬だよ」兵士は軽々しく答えた。

「まあ、なんて言うことを貴方は言うのですか!すぐにも告解をなさい。そんな怪しげなものは私は塗らないぞ!」

 たちまちのうちに神の申し子に戻ったジャンヌは、こう叫ぶとその薬の塗布をきつく断った。

「ハハハ、驚きいります。ジャンヌ様!あなたはまさに信心深い神の子だ!それでは」顔中髭だらけにしたラ・イールは愉快そうに大声で言うと、兵士の薬を近くの草むらに投げ捨てた。その変わりに傷口が化膿しないようにせめてオリーブ油と脂肪の固まりを塗っておこうと彼はジャンヌの傷口にその無骨で荒々しい手で治療を施したのであった。

「さあ、これで、大丈夫だ。ジャンヌ、終わったぞ!」それから彼はまったく頓着することもなく乙女の乳房から流れ出た血と脂の滲んだ指先の汚れを、自分の口元でぐいと拭い去った。

「痛ツ!」包帯が巻かれた時、ふたたびジャンヌは人には聞こえないほどの声を洩らし、その眉間に苦痛の皺をかすかに浮かべ、その瞳に悲しい色が宿った。

 この時、その表情をジッと黙ったまま見つめ続けていたジル・ド・レの身体に微かな痙攣が走りった。それから彼は自分の厚い胸に凭れていた彼女をそっと草むらに寝かせたかと思うと、そのまま夕陽に染まる丘の方に駆け出していた。

「ウ、ウッ!」

 丘の上に立ち止まったジル・ド・レの口元から、陰獣の呻きのような声がかすかに洩れた。彼の局所から激しい性的オルガスムスが体内に流れた。それから彼は両腕を膝についたままハアハアと何度も肩で大きく息を吐くと、天に掛かる深紅の夕陽に向かってゆっくりと手を差し伸べ、十字を切った。

「神よ!私の冒涜を許したまえ!あの娘が見せた苦悶の表情、流す涙、何故かは知らぬ。だが、ああ、そのなんという美しさか!」絞り出すようなジル・ド・レの声は戦場の騒乱の中で、誰の耳にも届かなかった。

 この時、夕日に照り返されたの青年侯爵の顔には、得も言われぬ欲望に満たされた陶酔と恍惚の表情が浮かび上がり、その虚ろに澄んだブルーの瞳には何故か甘露のような滴すら溢れていた。しかし、そのようなことに気づく者も又、この血腥い戦場にあっては一人としていなかった。そして、ジャンヌもまた、ジル・ド・レのそうした姿を、ただ単に戦場の勇者が神に示す、敵への弔いの気高さと受け取ったまま、遠くから眺めていたに過ぎない。

 

 

 

*  *  *

 

 

 ジャンヌがペロン神父の教会に留まったのは一時間ほどのことであった。

 祭壇に跪き、聖体の秘蹟を受け、ミサを捧げると、彼女は立ち上がった。その様は先ほどまでの彼女の表情にはまるでなかった一種の凛々しさが漂っていた。彼女の背丈は一メートル五十八センチ位であったろうか。小柄ながらも四肢の均等がとれ、強健で、美形で、その姿が整っていた。

「裏口を教えて下さい。陽も高くなったので私はそこからそっと出ます」

 神父が指さす方を確認するとジャンヌはすっぽりとマントを頭から被り、まるで十年以上その勝手を知っているかのように入ってきた時と同じように、颯爽と身を翻して裏口から出ていった。

「神父様、またお会いできる機会がありましょう。でも今日のことは内緒にしておいてください!」

「誰にも話さないよ。また良い知らせを、お待ちしています。何かありましたら、いつでもここに来なさい。貴方の上に神のご加護があられますように」

「ありがとう!私は明日にもここを立ち、それから神のお告げ通りシャルル王太子をランスにお連れしなければなりません!その後にでも、きっとお会いしましょう!」

 そう叫んだジャンヌの声は、もはや娘というよりも少年の声のような張りのある響きを含んでいた。

 何という信仰の深い、不思議な魅力を持った乙女だろう!あの娘を決して疑ってはならない!

「神は、決して私を見捨てないわ!」

 彼女のそう叫ぶ声が、再び彼の耳に蘇った。そうだ、この娘はもう大丈夫だとペロンは思った。そしてジャンヌが立ち去った構内に、しばらく呆然と立ちつくしたまま時の過ぎるのも忘れていた。やがてどこからともなく、朝のミサを告げる教会の鐘の音が、鳴り響いた。

 ビクンと身体をひとつ振るわせると、彼は主の像の前に跪いた。

 天窓の明かり取りから今は差し込む光が矢のようにイエス像の上に当たり、下から見上げるとその深く刻まれた陰影のある顔には怒りを湛えた天使ミカエルのような影が宿っている。

 ぺロンは今日がキリスト復活の祝祭日の木曜であることを、今はすっかり忘れるところであった。そこで彼はジャンヌが入ってきた扉の方に歩み寄ると、どんな者でも迷わず入ってこれるようにと、その重い扉を開け放った。

街にはすでに軍馬や荷駄が行き交い、多くの人々が数日前までの沈んだ様子から立ちあがり、己の目的の為に行き来し始めているようだった。今日一日は彼らの上に何事も起こりませんように、ペロンはこう心に念じながら、紺碧に広がる五月の青空の眩しさに手をかざしてみた。

「そうだよ、ジャンヌ。神は決してお前を、お見捨てなどなさらない!」

​次回 第二章 ジル・ド・レ

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