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​ヨーロッパ紀行(1977年)

パリへ

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 1977年、夕暮れなずむ、カルチェ・ラタンのカフェ「ド・マーゴ」。

 そこに一人すわり、街行く人々を眺めた、あの冬の日のパリのことは忘れられない。ぼくは三十歳だった。迎えに出てくれる者もなく、ただ指定されたホテルの紙だけを頼りにドゴール空港に着いた。たった一人ぼくの味方をしてくれたのは狭いアエロ・フロート機の中で隣に居合わせたマリーだった。彼女はどこかの出版社のエディターで、ぼくに初めて「マルグリット・デュラス」という小説家の名前を教えてくれた女性でもある。今、パリでは誰を読むべきかと機中で聞いた時、彼女はぼくのノートにその人の名前を書いてくれた。そして、

  ―大切な人よ、とても大切。と、つぶやいた。

  日本では文庫本で「モデラート・カンタービレ」しか出版されていなかった時代である。ぼくはその美しい響きの名前を反芻した。マルグリット・デュラス・・・きっといい女に違いな、ぼくはその人の名前を滞在日誌の一ページ目に記した。

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 ドゴール空港に着くとタクシーに乗ろうとしたが、その時、マリーが迎えのないぼくを心配してバスに乗せてくれた。作詞家のHからは空港からはタクシーに乗れば良いと聞かされていただけなのだが、彼女は何と無駄なといった顔つきで終点のポルト・マイヨーまで連れていってくれた。たしかにあの距離をタクシーに乗っていたら大変であった。今回の旅は旅費だけは人がだしてくれたが後はすべて自腹だった。ぼくは金持ちでもないし、妻と子を東京に残して贅沢させてもらう旅だった。

 

 バス・ステーションに着くと、そこでマリーは初めて後はタクシーに乗ることを提案し、後日の再会を約して、ぼくと別れた。タクシーは不安なぼくをサンジェルマン広場に面した小さなホテルまで運んでくれた。三日ほど前に先発していた女優のKとHはどこかに出かけているらしく不在だった。僕はなす術もなく、ホテルを出るとすぐ目の前の「カフェ・ド・フロール」に行った。

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―アン・ルージュ・シル・ブ・プレ!これがぼくの発した最初のフランス語会話だった。

 運ばれてきた赤ワインとグラスの姿、テーブルの上の灰皿の形、そうだマッチも貰っておこう、そんな何でもないものまでが珍しいパリの息吹で、ぼくの胸ははちきれんばかりであった。

 パリに行きたい、しかしパリは遠い、品川の沖に行って思いを馳せるというような意味を歌った詩があった。ヨーロッパが本当に遠かった時代の事だ。今は誰でもすぐに行ける、と世間では云う。そうかな、と思う。確かに安く、早く、行ける状況は整ったかも知れない。しかし旅の便利が整ったからといって、そう簡単にはいけるもんではないとぼくは思う。物事の便利さは、便利になる分もう一方で、人間に複雑な生活の鎖を巻きつけてしまっているのではなかろうか。だから自分がこうしてヨーロッパに来れたのが三十歳であったこと、それが早いか遅いかは知らないが、要は行きたくても行けなかったというのが感想である。余裕のない生活、会社勤め、家庭、そして子供の誕生と・・様々な要因が交差しぼくにヨーロッパは遠かったのである。

 ―やっと、着いたぞ。ぼくは、こう呟いた。

  ぼくは今、あの画家のモディリアニやピカソやフジタたちが、そして実存主義者のサルトルやボーボーワール、小説家のボリス・ヴィアン、F・サガンといった人々が集い、語らった店に腰を降ろしているのだ。目の前にサ・ジェルマン・エ・プレ教会が立っている。通りにはマロニエの冬木の並木道。すべてが茶褐色とクローム・イエローとくすんだオークジョンを背景にしている。そこにブラックとチャイニーズ・レッドの縦線。この町並みの色は日本の街の色と隔絶している。やっと、あの佐伯祐三の描いた色そのものを肌で感じることが出来る所にやってこれたのだ。その佐伯が日本に一時、帰国して落合あたりの風景や港に停泊している帆船を描いた絵が数点残っているが、その色彩は悪くはないが頂けない。彼は日本の風景の中に何とか彼なりの色彩を見いだそうとして必死に格闘したのであろうが、日本の風景はやはり彼の心の色彩の対象物にはならなかったという感じだ。ぼくにとってやはり彼は、今眼前にある巴里をぼくと同じように「愛した男」で充分であると解釈する。だが、彼が巴里を愛したということは、彼が日本を愛していなかったというような意味ではない。彼の体の中にある、ある色彩感覚というものが日本という風物のもつ色彩より、より強く巴里という街のオブジェが持つ色彩とたまたま激しく呼応したということである。故に何処の国の人などという概念はこの画家にあっては当てはまらないのである。

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  もっともぼくたちがピカソ、シャガール、キスリング、ムンク、モジリアニ等の画家の絵を見るとき、彼らがそれぞれスペイン人、ハンガリー、北欧、イタリーの人間であるといった意識をもってその絵を眺めるであろうか。もしそのような見方をもってするならそれは正し鑑賞方法とは言えまい。なぜなら、ぼくたちが彼らの絵から受ける感動といったものはそうした彼らのナショナリズムの特質を知った上から来るものではなく、彼らの絵そのものからくる美しさといったものに直に触れたところから生まれる喜びである。美は国境を越えるのである。彼らとて勿論自分たちの生まれた国の特質を知らないわけはなかった。熟知し研究していた。しかし彼らが描こうとしたことは、彼らはどこどこの国の人間であるということを我々鑑賞者に証明する為に絵を描いた訳ではない。彼らはまず人間であった。彼らの血は人間を求めていたのであって、その共通にわたる美というものが、自然や人間というもの中にあることを信じて絵筆を執ったに違いない。たまたま描いた絵が結果としてその国の血を表現していたとしても、それを彼らは敢えて否定する理由も無いわけだが、少なくとも彼らの作業中にはそんな意識は存在していなかっただろう。このような意味から、ぼくたちの鑑賞の目が知識によって絵を濁らせてはならないのである。その意味ではぼくにはフランス人のユトリロが、佐伯の師匠ブラマンクが描いた巴里より、東洋の佐伯の描いた巴里の方が、その質を捉えていると思うのである。その巴里が今眼前にあるのだ。

  

*   *   *

  

  二十代の前半、パリで絵の勉強をしたいという考に取り憑かれていた時期があった。きっと向こうで大成してみせる、駄目でも帰国したらカット絵ぐらいでも暮らせるだろう。どうあってもパリに行き、本場で一度は修行せねばと熱に浮かされたように思いこんでいた。

 その頃、ぼくは佐伯祐三という画家を敬愛していた。彼の描くパリの街角がぼくの巴里のすべてだった。まだ見たこともないパリの街の地図を頭の中にすっかり畳みながら佐伯の描いた巴里へ行く夢を抱えて暮らしていた。だが佐伯の絵に出会う前までは自分の身辺にはあまりヨーロッパはなかった。高校時代はパット・ブーン、フランキー・レインやパティ・ペイジ等アメリカのポップスを聴き、後半にはビートルズ一辺倒だった。当時、女子クラスにKというませた女の子がいて、彼女はポップスを尻目にジャズを聴いていた。ジャズといえば大人である。さらに高校生の分際で道玄坂あたりのジャズ喫茶でコーヒーでも飲めれば立派な不良で、大人に見えた時代だ。ぼくよりよっぽど大人だった彼女から最初に貸してもらったレコードがチェット・ベーカだった。ぼくは素直な、お嬢様タイプの娘と付き合っていたが、このレコードを聴いてちょと脇道にそれ、Kに惹かれてしま った。レコードだけはコルトレーン、シナトラ、ビル・エバンスと成長していったが、タバコやコーヒーと共に恋のほうではぼくはすこしも成長しなかった。

  当時「おく」という言葉があった。「この子はおくです。」と中学の時、担任の先生に母親の眼前で云われたことがある。「遅れてる」という意味だ。ショックだった。勉学が遅れてるとかいうことではない。もっと性的な臭いのする、いわば大人びないというか、悪いことではないが困ったことみたいな変な言葉のニュアンスがチビだったぼくを苛めた。同時に「ませてる」という言葉をぼくは嫌悪した。それは今でもそうなのだが「ませられ」なかった自分の精神に対するコンプレックスを呼び起こす言葉だった。そこで好きでもないジャズを一生懸命聴いたのもこの精神の裏返しの行為であった。だから大学に行ってコーヒーも酒もタバコもやれるようになったが、好きでもないジャズ喫茶には強いて行かなくなった。ジャズの流れる薄暗い部屋の中で、文庫本を片手に、一杯のコーヒーを目の前にして沈思黙考している輩はやはりぼくには「ませてる」人種だった。そこに哲学があるような臭いがプンプンで・・確かに「おくれて」いたのだ・・・ぼくはそれに対抗するようにやがて公園での読書に没入していった。読書こそはぼくは「おく」でもなく「ませてる」でもない自分に仕立ててくれる成熟の場所だと思えたからだ。

 

 当時のヨーロッパ、特にパリのカルテェ・ラタンの学生たちがジャズを聴き、サルトルを信奉し、ボリス・ビアンがジャズ評論で活躍していたということを後年知ったが、当時ぼくが巴里にいてもやはりぼくは「遅れて」いて、「ませられなかった」と思う。何て事はない。高校時代のぼくはいわゆる「いい子」だったのである。それがぼくにとっていい事である訳がなかったのだが。

 

 高校の頃のヨーロッパは美術の部屋にわずかにあった。ラオコーン、ビーナス、メジチなどの石膏胸像が並び、ミレーの「晩鐘」や「落ち穂拾い」の複製画が飾ってあった。ここも又一種の隔絶された不思議な場所であった。絵は小学校のことから得意の科目であったのだが、ここに出入りしている仲間が皆大人びて見えた。彼等はジャズも聴いていたが寧ろクラシック派であった。シベリウスとブルックナーはどちらが凄いか等と論じてる。チンプンカンプンで、ぼくはやはり貸してもらったレコードを聴き、叙情的メロディーの多いシベリウスに手を挙げたりしていた。ぼくが好きな画家はゴッホとモジリアニとユトリロだったが、ラウシェンバーグというアメリカのポップアートの旗手を語る友人に舌を巻いていたのである。しかし絵を描くことが好きだったぼくは絵という視覚の中には「おく」も「ませ」も無いということに気づいていたので、この道に惹かれていった。誰もが等しく出題されるヨーロッパの石像デッサンに於いて、ぼくはいつもみんなより「進んで」いたからである。ヨーロッパが少し見え始めていた。そして佐伯祐三の絵に出会ったのである。

 それから学生運動のまっただ中を過ごした。日本の古典や外国の書物を読むようになったがやはり一番自分に影響を与えたのはヨーロッパの象徴主義派運動に於ける美術と音楽と文学だった。

  鴎外、漱石、芥川という系譜を辿ってきてそこから鏡花、谷崎と曲がるうちに西洋のシモンズに流れて行く。シモンズからボードレール、マラルメと来ると、日本の浪漫主義、そして小林秀雄の「ランボー」に出くわしたのである。富永太郎、中原中也・小林等の青春がオーバーラップされて、自分をヨーロッパに駆り立てた。ヴァレリーの「テスト氏」が舵取り案内を買って出た。

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 そんな折り行動作家・五木寛之の「さらばモスクワ愚連隊」が出て、衝撃を受けた。ぼくたちがヨーロッパに渡るには飛行機代が高すぎる。ナホトカ経由シベリア鉄道でモスクワへ、それからヨーロッパへ入るというルートが話題になったのである。

 

 大学を出るとぼくはある芸能プロに就職した。カンツオーネやシャンソンといったヨー ロッパ音楽が全盛を誇っていた時代だったと思う。百万くらいあれば妻と子供の一年間の東京での生活費は大丈夫だろうと、ぼくは真剣にれを提供してくれるスポンサーを探そうと考えた。そして自分は渡仏してしまえば滞在費ぐらい何とかなると思っていた。

 

 青春の夢止みがたし。ぼくはパリ行きを決意して会社を辞めたが、パリ行きは実らない。絵描きになるなどという将来性のない話に、簡単に金を出してくれる人などいるわけがなかった。やがて、レコード会社に再就職しディレクターをやり、そこでヨーロッパ指向の歌ばかり作っていた。

 すっかり音楽世界に浸ってしまい、そんな年月の中でいつしか絵描きになろうなどという夢は仕事や生活事情もあって根性なしに薄れて行てしまった。そしていつかパリに行ければそれだけで良いかというような気持ちになってしまったのである。だらしない話である。

 ひょんなことから、パリ行きの機会が訪れた。ぼくの手がけた女優のレコードがヒットしたら、その褒美にパリ行きの旅費をだしてくれないかと冗談半分に申し出たら、相手のプロダクションが、よろしいとOKしてくれたのである。ぼくは見事にこの賭けに勝った。そしてその女優と彼女の知り合いの作詞家のHが先発し、遅れてぼくは遂に一週間のパリ旅行の機上の人となった。一九七七年の冬のことだった。

        

 

*  *  *

 

 異次元の都に入ったように翌日から、ぼくは夢心地でパリ中を歩いた。当時、ぼくの周囲にはパリに行った友人などほとんどいなかった。ぼくは頭の中にため込んできた資料と地図を頼りに歩いた。記憶は色褪せていなかった。パリは二百年前の亡霊が現代に蘇ってもその景色は変わっていないと言われる。そう、ぼくは昔、佐伯祐三がキャンバスを立てた場所と全く同じ地点に佇み、空想の絵筆を取ったりした。勿論、おのぼりさんとして観光客と共にパリの名所旧跡も巡った。

 幸いなことに、作詞家のHは何とか女優のKをぼくから離そうとして、彼の友人である有名なデザイナーのスタッフの家や、夜のディスコへと毎日彼女を連れ出していた。彼女もまたぼくと同様にパリは初めてであった。しかし何度もパリに来ている作詞家にして見れば、彼女に観光案内など勧める気もなかたようだし、そんな役を演じる気もなかったのであろう。あるいはおのぼりさんのようにパリ、パリと喚きたてて街を見て回るぼくなど実にださいのだ、といったコナレタ風の態度を彼女に見せたくてしかたなかったのかも知れない。そして自分が知っていると勘違いしている、今日のパリを得意げにひけらかしているのである。何度も外国に行っている奴に、よくこういうタイプの人間がいる。実にあさましくて、嫌な輩である。おかげで可哀想に、彼女はすっかりパリの生活人にさせられてしまい、どこも見て歩けないまま日を過ごしていた。この大きなお世話の迷惑に彼女はヒステリー症状だったが、それと気付かない作詞家は、相変わらずぼくをほったらかしておいてくれたのである。

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 そんなある朝、ルーブル美術館を見て、それからあそこを回って、それから・・・などと考えながら地下鉄の方に階段を駆け足で降りていった時のことだ。あの迷路のような地下道を歩いて行くと突然、前方から大きなチェロの音色が反響してきたのであった。それは何とも厳格な、深い音色だった。角を曲がるとそこでぼくは、一人の若者がチェロを弾いているのと出くわした。パリの地下鉄の通路や電車の中で良く音楽を奏でている人がいる話を聞いていたが、ぼくにはこれが初めてだった。

 

 思わず立ち止まり若者の演奏に耳を傾けた。確かにここでは音色にエコーがかかり器楽の練習にはもってこいの場所である。きっとどこかの音大生に違いない、練習をかねてバイトしているんだなと思った。彼の足下にはわずかばかりのフランが投げ入れられた帽子の銭入れが置いてあったから。ところが若者は目の前に立ったぼくの姿に目もくれぬばかりか、通勤に急ぐ人々の姿にも無関心に一心不乱にチェロをひいている。ぼくは彼のその毅然とした姿とチェロの演奏にひどく感心し、その美しい旋律に聞きほれた。一曲終わると、拙いフランス語でぼくは若者に聞いた。

 ―何ていう曲?

 ―バッハ!

 たった一言、それだけの言葉が、無造作に、しかし誇り高き響きで若者の口から漏れた。ぼくは何だか自分の無知な質問を恥じた。ああ、これがあの有名なチェロ奏者カザルスがスペインの古本やから発見したというバッハの無伴奏チェロかと、その時初めて気づいた。ぼくは何かもっといっぱいこの若者と話してみたい気分になった。カザルスとは、ピカソとは、スペイン戦争って・・・。パリで過ごした芸術家達へ捧げた、若き日のオマージュがまざまざと蘇った。と、その時、ぼくの傍らでさっきから若者の演奏を聴いていた一人の品の良い中老婦人が、たった一言、

 

 ―メルシイ!

 

 帽子の中にそっと一フランを置いて立ち去って行った。婦人はいかにも若者の演奏に満足したのだという表情である。感動を与えてくれた者、たとえその者が無名であれ、金を渡すのは至極当然の感謝の意なのだといった素振りであった。だからといって、ぼくが望んだように、彼女は自分の心の中に宿っている彼女自身の歴史を何か言葉に表して、この若者と語りあうであろうか。ノン!である。彼女は爽やかな風のようであった。若者の口からもたったひとことの言葉が返ってきた。

 

 ―メルシー。

 

 それはなんという美しい響きであったか。そこにあるものは媚びでもなく、慇懃でもない、自立した精神というものから発せられた不動の感謝の響きといったようなものだった。老婦人はその言葉を聞くと、ニッコリほほえんだ。若者は再びチェロに向かった。

 

 これがパリだ!ぼくが懸恋した街だ。

 

 芸術の遺品は東京にもパリにもいっぱいあるが、パリにはこの芸術家を育てようとする人々の温かく厳しい姿勢があるのだとぼくは思った。これがパリだ。周囲にへたこれない、自立の精神を養ってくれる空気が地下鉄の中にまである。そして一方では崇高な精神はいくら持っても良い、といった芸術家たちへの激励の芸術遺産が街には沈黙の姿で点在している。ぼくは久々にパリに住みたかったという、あの若き日の夢が少しばかりわき起こってくるのを感じた。

 

 さて、あの地下鉄のバッハは今頃どうしているだろうか。  

 

 パリは女である。ルイス・ブニュエルでは「昼顔」。

 

 詩人・金子光晴の言葉―

 「汽車が巴里の郊外地にさしかかると、昔東京から旅に出て、かえってきたときの横浜、川崎と近づくにつれておぼえた、おさえがたい胸のときめきを、はやパリにもおぼえるのであった。パリがもうふるさとになったようなおもいなのだ。いや、そういう馴れ馴れしさでひきつけるのがパリがかまととの手練女の媚びかもしれない。この街は不思議な街でくらいモスコウから霧のエコスたちの住む国からアビシニアからテヘランから、あつまってくる若者達を因虜にして、その若者達の老年になる時まで、おもいでで心をうずかせつづけるながい歴史をもっている、すこしおもいあがった、すこし蓮っ葉な、でもはなやかで、いい香いのするバラの肌の、いつも小声で鼻歌を歌っている、かあいい、おしゃまな町娘とくらしているような、それで、月日もうかうかと、浮足立ってすぎてしまいそうなところである・・。」

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 ある夜、ちょうどヨーロッパに来ていた金持ちの友人が、モンマルトル近くのバーに連れていってくれたことがある。薄暗い店の一階がカンターになっており、その階下にはもうひとつのフロアーがあるようであった。バーテンが一人いて、ぼくたちはその男を相手に酒を飲んでいたのだが、その時、一組の男女が入ってきた。男は痩せて小柄であったが、どこか風采のあがらない、情けない人生の敗残者いった風体である。その男の腕をささえた女の方は、男とは対照的な小太りのした、やはりこれもどこかのお内儀さんといった風であった。彼女は花売り娘がするようにスカーフを頭から顔にかけて結んでいた。少し酔っているのであろうか、男は女に向かってしきりと猛々しい言葉を吐いているようだったがカウンターに腰を降ろすと、そのままうつぶせになってしまった。すると女のほうは放心したように虚空を見つめているのであった。そこへ一人の派手な女が店の中に入ってきた。女は小太りの女の所へ行くと、一言二言、何事か話し、やがてうつぶした男を促すとその腕をひっぱり、そのまま二人で地下の方に消えていった。

 

 ―後から入ってきた女、あれ娼婦だよ、と友人が呟いた。

 

 ぼくには目の前に繰り広げられている男と女のやりとりが何が何だかさっぱり解らなかった。見れば、今度はとり残されたスカーフの女がカウンターにうつぶしてしまっている。沈黙の時が店に流れた。それからぼくと友人は巴里や仕事の話をしながら酒を重ねた。何分かが過ぎた時、先程地下に消えた娼婦が今度は怒ったような表情で戻ってきた。そしてなにか喚きたてていると、その後から例の小柄な男がとぼとぼと階段を上ってきたのである。カウンターの女は顔をあげると、その時、これ以上の悲しみはないというような眼差しを一瞬、男に向け、バーテンになにがしかの金を払うのをぼくは見た。それから女は立ち上がると、まるで子供をあやすかのように男の肩を抱きながら、扉の外の街に消えていったのであった。

 

 ―あの二人は、夫婦だよ。

 

 バーテンが、こうぼくたちに囁いた。この時、件の娼婦はカウンターに腰掛け、ワインを一気に飲み干すと、フーと煙草を吹かし、それから好色の目でこちらを見た。

 

 ―寝てもいいんだぜ、と友人が言った。

 ―帰って、寝るよ。

 

 ぼくはひとりでバーを出ると、石畳の坂道を降りていった。すると目の前を先程の夫婦がトボトボと歩いているのが目に入った。夜の街灯に照らしだされた二人の影が屈折して、石の壁に浮かび上がるのを追い越し、ぼくはタクシーを拾うと、ホテルに戻った。

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 バタイユの「眼球譚」、ヘンリー・ミラーの「クリーシーの静かな日」等の小説は巴里の娼婦を描いた性の傑作であるかもしれない。しかし彼らでも、敗残者の男が、その屈辱的な妻に連れられて女を買いにくるというようなストーリーは描いてはいない。娼婦を描くより、娼婦が出会った事件を描くことの方がおもしろいこともあるとぼくは思った。三島の書いた「金閣寺」より水上勉の「雁の寺」が勝れていると思うのはそのためである。

 

 そして、オペラ「椿姫」はこの街から生まれた。ぼくが気に入った散歩道を記しておこう。

【続く、随時加筆】

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