日々の泡
感想
(2)
黒衣の女神
仲間からトゥトゥーヌ(仔猫)の愛称で呼ばれていた世界的歌手ジュリエット・グレコが亡くなった。僕にパリの香りを教えてくれた人。93歳。
僕が生まれた頃、彼女はサンジェルマン・デュ・プレでサルトル、カミュ、プレベール、コクトー、そしてボリス・ヴィアン、ゲンズブール、ジャンヌ・モローなどと言う人達に囲まれた青春を送っていた。彼女の歌は詩の朗読劇のようなメロディで難しいので、スタンダードシャンソン以外はあまり日本では流行らなかったかも知れないい。
この粋で、伊達な実存主義歌手を育てた時代背景を知るには彼女の友人ボリス・ヴィアン著「サンジェルマンデュプレ入門」がお勧め。そして生涯マイルス・デヴィスを虜にした彼女のお陰で、あの「死刑台のエレベーター」の名演は生まれた。そんな二人の恋の姿はマルコム・マクラーレンのアルバム「Jaz in Paris」の中の「マイルス、マイルス」がお勧め。
彼女の最後の公演は日本でのコンサートだった。2016年。見れてよかった!
静かに孤高の黒い女豹が佇んでいるような、わずかな手の仕草と枯れた歌声を思い出す。
古き良き時代の巴里の女神。こう言う歌手はもう出ないだろうな。時は過ぎゆく、LA VIE S'EN VA!哀悼。
深夜、「美の壺」を見ていたら、若い陶芸作家の作った茶碗で、これまた若い茶道家がその器で一服たてた。そしてその若い茶道家がその器に対して述べた言葉に久々に感心した。
曰く、
「生命なんてとても認知できないけど、生命感なら認知できるし、持ってこれる。野にある花は持ってこれないが、野にあるイメージなら持って来れる。すごくいい誤解、いい錯覚を作っていると思います」
確かに芸術は自然を模倣するなどとは古くから言い尽くされた言葉ではあるが、悪い誤解ではなく、いい誤解を産むとはいい言葉だ。まさにそこにこそ芸術家の、芸術作品の真価があろう。この茶道家、彼はその道の名人になるだろうなと思った。
さて、今、僕はまさにカミュの「誤解」という戯曲の演出の真っ最中なのだが、カミュの言いたい事はこの悪い誤解と良い誤解の事であろう。前者は人間のエゴであるが、良い誤解とは人間への愛であると言う事だろうと思う。
スター
オリンピックだからという訳ではないが、スポーツ競技を見ていて普段思うことがある。
例えば、数字上では一位を取れない日々が続いていても、王者はここぞという本番では自分が出したこともない記録で勝利を収めるのを目にすることがある。
本番という舞台に上がると、未知な力を生み出す要因を育て持っている。平素、数字上では王者より勝利を得ている「本命」と言われる者がなぜかそこでは勝てないのは、そこまでに至るのギリギリの状態であり、未知の経験の場で更に新記録を出してもふと見るとなおその上を行くものおり、次席に甘んじてしまう。
何が違うか。思うにスタートは負けまい、勝つぞという貪欲な強い一念を経験上もち、その経験的上位性をここぞという時に引き出せる精神的内面の技量を蓄えている。
品性と品格の違いでもあろうか。品性とは他人が教え、作ることもでき、数字で測れる性質のものだが、品格とは測れないものだ。普段自分自身の内部に経験している量を他人の考えの及ばない質に創り替える潜在能力、それをスターの持つオーラというのであろう。