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ペイントブラシ

日々の泡

画論・画家

佐伯祐三アトリエ暮景

 

 下落合で知人の芝居を観る序でに、前々から一度は行かねばと思っていた画家佐伯祐三のアトリエ跡を訪れたが、生憎と閉門していて中に入れなかった。

 三月の夕暮れが迫り、薄っすらしたセピアの空に浮かぶアトリエの鋭角と冬木立を門外から眺めていたら、急に過ぎ越しの日々に涙が出た。 

 思えば、高校時代から佐伯に憧れ芸大を目指し、佐伯のパリに憧れて渡仏を考え、その為沢田研二にマネージャー辞退の旨を伝え、しかし夢はまだ遠のいていたが木之内みどり「横浜いれぶん」ヒットのご褒美にと約束したパリ行が適ったのは30歳の時だった。暇を見つけては佐伯がカンバスを立てた場所を探してはモンマルトル、リュクサンブール公園などを彷徨い、打ち震えたものだ。

 パリは佐伯の画風体質に似合っていたが、帰国した彼に下落合風景は似合っていなかった。彼はこのアトリエを去り、再びパリに赴き、そこで狂死した。

今は単なる記念館になっている主なきアトリエ、その主人に見捨てられたアトリエ。夕空の向こうに何が見えるか?自分も、又、今は何を見ているか。​

(2017年3月5日)

水彩ブラシ6

梅原龍三郎「噴煙」

 

 雑誌を読んでいてとても面白い文章に出会ったので、そのことを書いておく。

 

 ある時、吉井画廊の吉井社長が巨匠画家の梅原龍三郎と浅間山に絵を描きに行った時のことだそうだ。梅原は煙草をふかして、ただ山を見ているだけ。

 明くる日はどんより曇っていて、吉井社長が「昨日はよく見えましたが今日は見えませんね」と言うと、

「今日は実に良く見える」と言って、梅原は浅間山風景をさっと描いたそうだ。

 ー形が見えなくなった時に、モノが見えるー

 そういうものが画家という者の眼なのであろうと、吉井は思ったという。

 

 形が見えなくなった時に・・・この眼は画家だけとは限るまい。実に、味わいのある話だと思った。ジャコメッティの彫刻すら思い出させる話である。

葛飾北斎70歳の言

 

富嶽百景 の跋文

「己 六才より物の形状を写の癖ありて 半百の此より数々画図を顕すといえども 七十年前画く所は実に取るに足るものなし。

七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり。故に八十六才にしては益々進み 九十才にして猶(なお)其(その)奥意を極め 、百歳にして正に神妙ならんか 、百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん。願わくは長寿の君子 予言の妄ならざるを見たまふべし」

一日遍歴

 

 今日は今年の8月末に死んだ大学以来の親友の本葬で、埼玉の東領家と言うところまで行ってきた。彼とは6月に銀座で食事をしたばっかりだったが、持病が悪化してその二ヶ月後に急逝した。日暮里から初めて舎人スカイラインというのに乗って荒川を渡り、舎人公園で下車。焼香を済ませた後、友人達と上野池之端の伊豆栄に出向き、鰻を食いながら献杯。窓外の不忍池には蓮が伸び放題だが一輪の花も今はもうない。

 

 さて不忍池で友人達と別れると一人東京芸大美術館に足を伸ばした。ちょうど過去の卒業生が卒業制作として残した自画像展をやっていて、是非覗いて見たかった。錚々たる画家の中には、図版などで見ていた青木繁、佐伯祐三、和田英作、岡鹿之助などの自画像もあったが、実は今回のお目当ては原田直次郎の「靴屋の親父」の展示を見ることにあった。

 ミュンヘンに留学中の原田はやはり医学留学生だった森鴎外とかの地で親交を結び、狂王ルードヴィッヒの溺死事件と出会い、それをモチーフに描いた鴎外の「うたかたの記」の主人公のモデルになっている。その後帰朝した原田は美大の初代西洋絵画科の主任教授になる事を願ったが、時流に機を得ず、その後その場を黒田清輝に奪われ、36歳という若さで死んだ。彼の作品はわずかだが、レンブラント風脂派の人物像の腕は群を抜いており、誠に夭折が悔やまれる。

 自分も芸大を受験したが試験日が早大の二次面接試験と重なり、もし芸大を落ちての浪人生活も家庭事情でままならず、結局午前中だけデッサンの試験を受け、そのまま書き残した絵を後にして早稲田に向かった日が思い出される。あのまま文学などにのめり込まず、自分も絵の道に進んでいれば、この上野の森に自画像ぐらい残していたかも知れぬ。だがそうなれば今日見送った亡友とは、それでは会えなかった事になるし、まあ過ぎ去りし日々は「うたかた」に思える今日の秋の日であった。

(2020年10月18日)

雑感

 画家のミロが「自画像」をもってパリに着いた時、ピカソはまだ無名のこの若い画家の才能を愛し 次のように言ったそうである。

 「地下鉄の順番を待つように、いなさい。」

 ピカソは終生、この若者の作品二点を自分の手元から離そうとしなかったそうだ。ミロのパリ滞在生活は貧窮を極めた。週に一度、それも昼飯にシチューとパンを食べられる日があればよかった。 彼はじっと自分の順番を来るのを待った。 ある時、「農園」という大きな絵を携えてパリ中のギャラリーを廻ったりもした。 画商は言う・・・

「中々、良く描けていますな。しかし、もう少し、少し小さく区切った絵ならば・・・・」

 ミロの才能は貧乏の中でも、弾けるように大きく、カンバスも広がっていただろう。そんなある日、彼はある買い手 に出会う。当時、パリでボクシングのマネージャーをやっていた異国人、若きアメリカ人のヘミングウエーである。ミロの初期の傑作「農園」はこうして絵に対する慧眼を持った、しかし彼自身まだ無名の人間に過ぎなかった文学者によって購入される。ミロは又、空腹を抱える。シュールレアリズムの旗手A・ブルトンがこの空腹から生まれた創作作品の数々を買い求めた。契機は訪れる、必ず。

 想う。果たして貧窮の生活は芸術を助けるであろうか、と。しかし元よりそこに暗さなどの影響を浴びてはならない。モーツアルトの音楽が生活苦などまったく無視ー否、最初から考えだにしなかったようにー明るく澄んでいたように、ミロの絵は輝いていた。 すべからく世に才能が認められるのはピカソの言葉の如くだからだ。

「妻よ、 貧乏だから、こんな良い月が見られる。」こう唄ったのは詩人・山村暮鳥であった。この敬虔なクリスチャン作家は笘屋のような海辺のあばら小屋に家族と共に暮らし、何よりも流れる雲とリンゴの歌を綴った。彼はある日、畳の上に投げ出された何気ないリンゴを見ていると、詩が心に歌いだした。

ーなあ、たった一度でいい、たった一度でいいから転んで見せてくれーといた風である。

 

 そうすれば詩人は笑えるというのである。この痛いような幼児精神の中に、何かリンゴの芯を通 り抜けたような暮鳥の静謐な、恐ろしいほどの穏やかな視線を感じる。そして、彼が坐っている座敷の外には、ここでも、明るい秋の日差しの中で遊ぶ彼の幼い子等の声が禧遊している・・・。小川国夫が「アポロンの島」を自費出版したのは、作家が三十三才の時であった。まったく買い手の無かったこの本を一冊だけ買い求めた人間がいた。奄美に住む作家の島尾敏雄である。それから八年後、島尾はこの作品集を朝日新聞に紹介する。幻の名著と世人が呼ぶ、この作品の誕生譚である。

 こんな逸話は数限りなく世間には転がっていることだろう。芸術とはこういうものだ。又、芸術的生活もそうだろう。信念をもっていること、明るい信念をもっていること、そこに祈りは適えられる準備がすでになされている。 金子光晴といい、どんな貧窮の中でも最高の玉露を、しかも熱い湯で飲み干すということを頑固なまでに押し通 した吉田一穂。この日本の詩人ソクラテスは、貧乏の巨人と言ってよいだろう。詩人と玉露に関し、こんな話が残されている。

 詩人を訪れた弟子たちが、出された例の熱湯の茶を冷ましてから飲もうと、口を付けないでいると、詩人はズイと相手の茶わんに手を伸ばし、ガラリ、背中の窓を開けると、ポイとその冷めた茶を捨ててしまう。そして、又、この上なく熱い茶を差し出すというのである。茶道の外道等という話をしてみても始まるまい。この頑な姿勢をいつも眺めていたのは、詩人一穂の背後の窓辺に生えていたという、まっすぐな一本の侠竹であった。

自画像

 自画像とは現在の時間からプラス1とマイナス1を計算した「今」を描くことであろう。ゴッホの肖像画が生きて見える所以はそこにある。つまり自画像とは、生命への透徹した刹那主義の表現であろうか。

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