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日々の泡

著名人・人々

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パコ・デルシアの事

 先日、フランシス・レイの事を書いた折、パコ・デルシアに触れたら書いてくれと言われたので載せてみます。

   言わずもがなパコと言えば、当代随一のフラメンコギター奏者としてのみならず、ジャズミュージシャンなどとの競演で世界的に名高い。その彼のお宅に伺った時の話である。当時、自分が佐藤隆とプロダクションを立ち上げた時、TBSのノンフィクション番組で「ジプシー音楽を訪ねて」と言うテーマでスペインに二週間ほどゆくオファーがあり狂喜した。まさに我がテーマ。同行で原田知世の姉の原田貴和子ちゃんも一緒だった。

 さてセビリア、ロンダ、アルフェシラスの港、それからジブラルタル海峡を渡り、アフリカのセウタなどと言う土地を巡り、行く先々でジプシー音楽、モロッコ音楽、カンテフォンドなどの演奏取材し、ロルカの暗殺された村にも行って、地酒ワインを飲みまくった。

 この時の旅の印象は随筆に書いて残してあるが、取材もいよいよ最後と言う時に当時ガディスと言う街に住んでいるパコを急遽尋ねようと言うことになり、OKコンタクトを得て向かったのである。

 パコは疲れている僕たちに「黄金の安らぎ」とか言う美味しいお茶で迎えてくれた。勿論、彼はギターなど弾いてはくれなかったが、その指を見ているだけでワクワクしたものだ。

和田誠さんのこと

 

 和田さんといえば木の実ナナさんを抜きには語れない。僕が29歳で彼女のマネージャーになった時、全くナナさんは売れてなかった。その間、小沢昭一芸能座旗揚げ公演「清水次郎長伝伝」、高倉健主演「大脱獄」この二つの仕事を決め、その現場に関われた事が思い出となっている。その頃からナナさんに永六輔、井上ひさしさんらを紹介され和田さんにもお会いした。

 

 和田さんは本当に昔からナナさんの理解者であった。ショーガールの成功を喜ぶファンであった。永六輔さんに連れられ自宅にもお邪魔した。ギョロリとその視線が鋭く、怖そうと自分は小さくなっていた。和田さんはバー「ラジオ」の常連だった。日本一のバーテンダー尾崎さんが「バーラジオのカクテルブック」と言うバーテンの聖書とも言われる本の編集を和田さんに頼んだ折、和田さんが数いる写真家の中から僕の従兄弟のカメラマン大輪真之を選んだ。その関係でまた店でちょくちょくお会いした。

  

 段々、優しい人に見えてきた。良く話も聞いてくださった。ギョロリの目が優しく見えた。今回の訃報、ナナさんが、一番辛いだろうな。合掌。

哀悼 山谷初男

 

 ハッポンこと山谷初男さんが亡くなった。ハッポンに初めて会ったのは今から44年も昔の1975年、小沢昭一さんが旗揚げした劇団芸能座第一回公演「清水次郎長伝・伝」(作永六輔、音楽神津善行)に担当の木の実ナナさん(ナナさんはこの頃、栄光のナベプロの片隅で苦労していた)が抜擢され、次郎長の妻お蝶役で出演した時に始まる。小沢昭一、永六輔、加藤武、山口崇、栗山民也さん等で全国を回った。私にとって人生始めての劇団芝居体験だった。

 以来、ナナさんのお宅で、我が家で、ハッポンに秋田訛りでの様々な歌を聞かしてもらいながら酔い潰れたものだ。秋田のお宅の旅館にも泊まったし、東京のお宅にもお邪魔した。

 最後にお会いしたのは古希の頃、下北沢タウンホールでのコンサートだった。僕を見ると「オオワチ〜ヤン!」といつもの様に優しく呼んでくれた。舞台やりましょうよと言うと「僕みたいなヘボな役者はさ、蜷川さんしか使ってくれないもの、でも蜷川さん、死んじゃたから」

 

 ハッポン、もう一度聴きたかったヨ、名唱「ボンボヤージュ」。どんなシャンソン歌手よりも、貴方の歌は心に滲みた。

 ボンボヤージュ もうええの

 そんただに やさしぐしねぇでけれ

 あなだは すぎなように~してればえ

 えのに わだしの涙など構わずに

合掌  (2019年11月12日)

高樹澪「ダンスは上手く踊れない」

 

 青山マンダラにて。何年ぶりだろう、彼女の歌声を聞くのは!先週の人間椅子と言い、澪ももう還暦だというが最デヴューで頑張っている。こっちが歳取るわけだ。

 37年前、彼女のデヴュー時、音楽プロデュースをやり「ダンスは上手く踊れない」でオリコンチャートベストNO1を獲得した。デヴュー曲はサザンの桑田君に頼んだ「恋の女のストーリー」だった。二曲目での快挙!今日はそんな時代に手掛けた懐かしい曲が聞け、我ながらいいプロデュースしてたなと、嬉しい時が過ぎた。澪は女優経験を経て、詞に味が出ていたね。

(2019年12月22日)

工藤栄一監督と李朝分院盃

 今日は監督逝って、20 年の命日である。十三の刺客」「必殺仕掛人」「ヨコハマBJブルース」等を手掛けた監督と自分が仕事したのは、担当していた根津甚八主演「その後の仁義なき戦」、沢田研二メガネスーパーCM等であった。

 京都に行く度に、大野克夫さんが紹介してくれた美人姉妹の経営する三条のカウンターバーで監督と飲んだものだ。その店に「Myお猪口」として盃を預けておいて、自分が行くと出してもらうようにしておいた。 それが写真の盃だ。

 監督に得意に盃を見せると、

「君、これは偽物だよ」と一言。

「えっ!」驚き、溜息つく自分を愉快そうに見ながら、

「ハハハ、冗談です。これは分院里だね」と慧眼の監督は、そう言って僕の盃を手にした。

 ヤクザ作品とは裏腹な、文学好きな柔和な人柄が忍ばれる。今日は野分の夜、これで飲む。

「ハプニングスフォー 」ライブ

  80歳になるリーダーのクニ河内さんが北海道から出てくるというので、急遽敬老の日の今日一日だけ再結成したライブが両国の門天ホールで開かれた。それも15:00から(笑)

 自分が渡辺プロに入社して、マネジャーとして最初の担当が布施明君とこのハプニングスフォー だった。この時、篠ヤン(篠原信彦)がキーボードで参加した。当時彼らの歌っていた「題名のない歌・その2」という楽曲があまりに良いのでクニさんに頼んで布施君に歌って貰ったのが名曲「そっとおやすみ」である。僕の最初のレコードプロデュース楽曲となった。その後、自分が沢田研二と井上バンドを担当した頃、彼らはトランザム!という渋いバンドを組んでいたが、やがてクニさんには木の実ナナさんの楽曲を、それ以降チト(チト河内)さん、篠ヤンとは僕が手がけた高樹澪、根津甚八、佐藤隆などのアルバムアレンジ他バンドを組み、そして再び沢田研二プロデュース時代にはチトさん、篠ヤン、原田祐臣に石間秀機を迎えて彼らとココロというバンドを作った。それぞれ、ニューヨーク、ロンドン、南仏などでレコーディングもしたなぁ。

 本当に懐かし何十年振りの再会。僕の音楽仲間のルーツがハプニングスフォー のメンバーと共にあった。静岡で良く飲んだ陽気なぺぺさん(ベース)が早くなくなったのは残念。トメのチリメンジャコボーカルは健在、痺れたなぁ!

(2019年9月16日)

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