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インド紀行(1987年)

出発

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 インドへ行ってみたいと、しきりに思っていた学生時代、知り合いのインド人が、こう話してくれたことがある。


 ―インドへは、行くのではありません。インドが貴方を呼ぶのです。そういう時というものがあるのです。
 

 どこか宗教的示唆に富んだ、しかし気障な呪文のような言葉だと、ぼくはその時思ったものだ。しかし後になって考えて見ると、仕事関係などで様々な国には行けたものの、なるほど行きたいと思っていたインド行きの機会には中々巡り合わなかった。


 大学卒業後、ぼくは一見華やかで人の目をひく芸能の世界に身を置き、そうした関連の某大手プロダクションで音楽のプロデューサーや舞台の演出などを手掛けていた。金儲けは下手だったが、それでもけっこう安定した生活を過ごしていた。新人タレントを売り出すために放送局や媒体を駈けずりまわり、夜は情報交換の酒に時を過ごし、時には有名な歌手の舞台演出といった好きな仕事に恵まれた。ヒットも出したし、浮かれ街あたりでは名もあげ、適当に女姓にももてた時期であった。外国、おもにヨーロッパへ時々行けたのもこの頃である。


  プロダクションからレコード会社へ、さらには独立プロと転職はしたが、自分にとってこの種の職業は嫌いではなかった。むしろ肌に合っていたと言っても良いだろう。そんなぼくを見て、嫌いでもない仕事なら何の不満もあるまいと人は思っていたかも知れない。ところがぼくの心の片隅のどこかに、自分は本当にこのような仕事を続けていてよいのだろうかという焦りに似た逡巡がないわけではなかった。つまり、ぼくはこうした職場の仕事に自分のエネルギーの九割を割いてきていたのであったが、やっかいなことに残りの一割のエネルギーの中に、学生時代からの自分の本当にやってみたい仕事への希求というようなものが未だ青白く、絶えず蠢いていたのである。それは文学や絵の創作活動に専念して飯を食って行きたいという思いであった。(結局大学では文学を専攻したが、画家になるために芸大を受験し、失敗した経験もあるのである)
 

 勿論、そのためには時間の許す限りそちらの方もやってきてはいたのだが、忙しい仕事の合間を縫ってのことではなかなか創作活動に身が入らなかった。うまく両者のバランスを取ればいいだけの話じゃないかと人に言われもしたが、そうした芸当は出来なかったし、本当にやってみたい仕事は片手間にやるなどということは到底、自分には考えられなかった。というよりも不器用な性分だったというところが当たっていたのだろう。
 

 そこで、無理にも、いやです、芸術は、死にもの狂い、気障にもそう信じたい気分であった。だが、一割でもエネルギーを割いていたぼくの創造的仕事への情熱は、九割の金儲け仕事の量 よりも、その質においても激しさにおいても、若く、しかも心の中でずーと重かったのは事実であった。
 

 ようやく、この割合を人生一度で良いから、逆転した生活を送ってみなければお前は後悔するぞ、そう自分に言い聞かせ、そう心に決め行動した時、ぼくはすでに三十七歳になってしまっていたのであった。
 

 さて華やかな職場を去ってからの二年の間、ぼくは何とか書き上げたい本の執筆に専念した。そうこうするうちに、自分の生活状態はたちまち下降線を辿り、生活をあがなうために再び何らかの職業を選択しなければならない程、金銭的にも追い詰められて来ていた。覚悟はしていたが養うべき妻子を持つ我が身にとって、それはさすがに身に応えた頃だった。

 インド行きの話が突然持ち上がったのは、そんな状態にある頃だった。 当時、ぼくはやっと書き上げた童話の原稿を見せに、知り合いの出版社や編集者を訪ねて駆けずり回っていた。しかしぼくの過去を知る人々は、「本を出したいのなら、あなたのやってきた芸能界の事を書いてくださいよ、それなら売れるかもしれない。だが童話は今の時代、まあ難しいですよ、名前があれば何とかなるが、なんであれまず名前を出してからなら・・・」おおむねの答えが、こうだった。

 


  そんなことは知ってらー、俺だって芸能のプロだったんだぞ、てっとり早い売れ筋やその方法ぐらい解ってる、だが何故に今、童話では駄目なんだ、ふん、有名無実の似非本屋め、下らない活字ばかり売り出しやがって、時代にへつらいやがって・・・

 

  予期していたことだが、そうした僕の叫びは何の事はない、自分の中に舞い戻って来るだけの情けない木霊であって、ぼくは真に悲しかった。そこでしかたなく自費出版を決意し、出来た本を何人かの人に贈呈した。すると偶然にも童話作家の立原えりかさんから手紙が寄せられ、ぼくはその知遇を得ることが出来たのであった。
 

 

 ある日のこと、立原さんとその仲間たちの間でしきりとインドの話が持ち上がったのである。そして、

 

 ―あなたも一度行ってみたら、という軽いお誘いの話がぼくにも向けられたのであった。


  立原さんはもう何度もインドへ行っていられたのである。まったく収入のなかった自分は最初躊躇したが、彼女はぼくのインド行きの旅費を快く援助してくださった。ぼくはこの時、立原さんの申し出に、昔友人が言っていた言葉をもう一度聞く思いがした。
 

  ―インドが貴方を呼ぶ時が有る。
 

 ぼくはその「時」というものが、この現時点の今なのかもしれないと勝手に強く感じてしまった。そこでぼくはさっそく妻に許しを乞い、急いでインドに関する観光案内書を読むと、こういう活字が目に飛び込んできた。
 

 ―さあ、いらっしゃい!わたしは実はあなたなのだ。
 

  実際、「あなた」と言われたぼくは自分の行き先をこれからもっと真剣に探さなければならない頃だと思った。インドに行けば、もっと何かが自分の中に見えてくるだろうか、若さにまかせてそう安直に考えた訳でもないがインドには無性に行ってみたかった。更に仏陀のこういう言葉も心に響いた。


  ―寒さと暑さと飢えと渇えと、風と太陽の熱と虻と蛇と、これらすべてのものにうち勝って犀の角のようにただ独り歩め。
 

  こうして二カ月ほどのほんの短い期間だが、ぼくは勇躍、インドへ旅立ったのだった。 丁度四十歳、もうインド放浪を書物にして青春を語ったような人々と同じようなことが似合うことも、出来るような年齢でもなかった。しかし、帰国してみれば、このインドの旅での経験をもとにした筆は勝手に走り出していたのである。それをまとめてみたのがこの随筆である。

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