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インド紀行(40歳)

瘤の枝

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  初めて見るアラビア海だった。


 夕暮れの中、女王のネックレスと讃えられたマリーン・ドライブへと続くボンベイの海岸道をぼくは歩いていた。何という魅惑に満ちた名前だろう、ボンベイ!かつて訪れたことのある港町の名前をぼくは数えあげてみた。大陸からも海からも押し出された力が、精いっぱいの踏ん張りを見せて凝縮する質量 の高い岸辺の星々。麻薬と、女と、音楽と、悪の巣と革命の故郷。
 

  はみ出し者たちの人生の行き場所は、航海という名の海上にしかない、出口への始まりの港街・・・上海、マルセイユ、リスボン、コペンハーゲン、アルフェシラス・・・そしてぼくは今、やっと念願の港街ボンベイを訪れることが出来たのだった。


  ボンベイ、だがこの港だけはどこか今まで訪れた港と違い、異国への出発というよりは入国専門の波止場だったように思われる。それはこの港町の背後に人々の計り知れない無限の神秘と未知なる謎を秘めた大地の歴史が広がっているからなのだが、その点からして、ここは海からの他者が、神秘國インドへの冒険許可書をもらうためにまずは通 って行かなばならない、最初の妖しい部屋の扉のような気がする。
 

 「ボンベイが見える!」
 

 航海に疲れた船乗りたちが、将軍や商人の金貨が、彼らに伴われた冒険好きな貴婦人たちが、甲板の上から麻薬のようにこう叫んでは、吸い寄せられたシバの唇、この港はインド大陸の丁度そのような位置にある。
 

 さて、ボンベイの海岸風景は今ではインドの歴史に比べればまったく薄っぺらな英国の占領時代の建築残骸を混入しながら横たわっている。おだやかな海岸線のカーブ、遠くの椰子の並木は南海の上に咲く植民地の蜃気楼のように霞んでいる。海に向かって開け放たれたタージ・マハル・ホテルの窓辺では、遥か彼方のモスクの街の七色の虹の伝説を運んできた潮風が物語を紡むぎ、女スパイマタ・ハリの肢体を覆った薄絹のベールの揺らめき似たカーテンが戦ぎ、バクダッドの秘話を聞くかのように今、一斉に灯火がともった。
 

  こうした建物の羅列の影を踏みながら海岸の道を歩いて行くと、やがてぼくは古いハリウッド映画のベンガル軽騎兵の凱旋シーンにでもうってつけなインド門の聳える港の広場にでた。広場は、およそ今までの海岸通 りの景色とは違った様相を呈していた。貧困の活気とでも言いたくなるような、それがぼくがインドで出会った最初の人間たちの坩堝であった。

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 薄汚れたスカーフの下から白濁した瞳を不安げに覗かせながら、観光客に孔雀の羽根を売っている裸足の老婆。手製の竹笛を油紙の上に並べている男の痩せた足。胡散臭い銀細工の飾りを、垢だらけの指先にぶらさげて売り歩く娘、その汚れた銀色の髪。人垣の回りを野良犬のように徘徊している乞食の群、そして白牛の気怠るく充血した瞳と、そこに映る濁った夕焼け。
 

 夕暮れがこのような人間の創りだす混沌とした劇場に静かに忍びより、エレファント島に渡る船の艀では舳綱が緑の波に揺れながら岸辺の牡蛎の歌を聴いている。怪しげな煙草を吹かしながら遠い雲を見ている少年たちの一群もある。 太陽の輝きは、そんな少年たちが見ている雲の彼方を今、アルカリ性の海に悠久の運行の煌めきを奏でながらルビーのように傾いていった。反対の東の薄桃色の空には、切り爪をおいたような月も出た。その光が遠慮がちにぼくの影を青ざめさせ、眼前に繰り広げられる物売りたちの声を痩せさせていくような時間。ぼくは人々が醸し出す、皮膚に痛みを感じるような空気の屯する所にいて、なぜか時間と空間がよじれその隙間から遠い昔の錆びたエキゾチシズムの漂いがやってくるように感じた。
 

  自分は、どこに迷い込んだのだろうか。ぼくは一瞬のめまいを感じた・・・ と、その時、一人の少年がぼくの目の前に立っているのに気づいた。 はてと一瞬、こちらが眼を凝らした瞬間、少年の目にも何事かを躊躇するような色の走ったのをぼくは見逃さなかった。めまいによってぼくの眼底は真白に浄化されたのかも知れない、ぼくが少年の瞳に見たものはぼくという人間の遠い記憶の底に眠っている懐かしくも、清潔な色といったようなものに思われた。だが、次の瞬間、少年が、
 

  ―ワン・ルピー!
 

  そう言いながら右手を口に持ってゆく仕草をした時には、もうその色はぼくの網膜からは消え失せており、変わって下卑た笑いを含みながら物乞いするただの少年の目にぼくは出会っていた。
 

  ―ワン、ルピー!
 

  少年はもう一度、ぼくに向かって呟いた。 そして今度は、ぼくの目のすぐ前に奇妙な瘤のついた一本の細い木の枝のようなものをニューと差しだしたのであった。ぼくは思わずギョとした。 木の枝などでなかった。見ればそれは少年の痩せた肩から伸びた腕であり、木の瘤と思ったのは少年の手の先に出来た丸い肉腫の塊であったからだ。そこには一本の指すらもついていなかった。かくも醜く、恐ろしいものを眼前に突き出されたものだから、ぼくの身体は硬直し、思わずそれから避けるように身を退けた。たちまち後悔の念も襲った。だが、見たくもないものを見せられる、こんな時はどう対処すれば良いのであろうか。とにかくぼくは少年から離れようと足を早めた。すると少年はぺたぺたと素足を鳴らしてぼくに追いすがって来、さらにこちらの気持ちを見透かしたかのように、恣意的な哀切の表情を浮かべ、又、
 

  ―ワン・ルピー、ワン・ルピー。

 

と、その異形の手をしきりと差しだすのであった。
 

  そんな少年の生業に染みついてしまった手慣れた仕草や表情、そして瘤の腕を見ることがもうぼくには本当に辛かった。ぼくは心の中で、最初にこの少年の瞳の奥に見た、不思議なくらいに美しい澄んだ魚の眼をもう一度探し求めようとした。だが自分の口から発せられた言葉は、そんな感情とは裏腹な「ノー!」という高圧的な旅人の異国語であった。インドで物乞いに出会った時は怖じけずに強い言葉を吐け、と人に教わったからだった。ぼくのこの強い語調に、きっと少年は逃げだすか、怒るに違いない、あるいは不貞腐れるに違いないだろうと思いながら、それほど威嚇的に出たのであった。
 

  だが、まったく反対であった。
 

  逃げたのは自分であり、ふて腐れたのも自分の方だった。もう充分だろう、何故か自分の吐いたノーという言葉に腹立たしくなったぼくは、振り返ることもなくどんどんと歩いた。それから走りだし、とある横道を曲がったのであった。そこは古い英国風の西洋館が建ち並ぶ界隈で、どの建物にもアイビーの蔦がびっしりと絡みついていた。ぼくはこのちょっとした西洋の空気に救われたように、ホッとした。だがそれもつかの間、ぼくは一軒の館の木陰に、先ほどの少年の手の瘤が張りついたような蔦の木の塊が光っているのを発見した。ぼくは思わず後を振りかえった。勿論、少年の姿などそこにはなかったのだが。
 

  それから三十分後、月が笑ったように頭上にかかり、月を頂点とした光がコンパスで円を描くように、ぼくを再びインド門の前に佇ませていた。するとどこからともなく、又、あの見覚えのある少年が現れた。彼は今度は友人でもあるかのように親しみを込めた目でこちらの方を見ると近づいて来た。それから又、何かを食べたいといったように、使いものにもならない醜い手を、唇に持ってゆく。彼は飽くことを知らずに、それを生業としているのだ。
 

  ―ワン。ルピー!
 

  やれやれ、と思ったのに、この餓鬼、またも来るか。
 

   「ノー!」
 

  何故か、インドにあって、あのムンクの「叫び」のような揺らめきが一瞬、このインドのアルカリの海の上に浮かびあがるのをぼくは感じた。こういう絶叫を再びぼくに強いるその物乞いの声は、だが、その後のインドの旅でぼくが幾度となく聞くことになる、人間社会の底辺で生きる者たちの日常的な調べなのであった。ぼくはインドに着いた最初の日から嫌な自分を試されているような気分になっていた。

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