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インド紀行(40歳)

​ブッジ

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 インドが神々と信仰の土地であることは知っていたが、もし信仰や修行が深山幽妙な静謐な場所で行なわれるものであるとしたら、人、人、人のボンベイやデリーのような喧騒はあまりにもそうした状態からかけ離れている。

 人間の坩堝からくる貧窮は精神的にも肉体的にも瞑想などという、そのような静寂の信仰の場を聖者には提供しない。ヒマラヤの奥地に行く聖者の話を良く聞くが、彼らの心根のことはわからないとしても、もしかしたら彼らはこのインドの街の喧騒が実は嫌いだったのだのだと言ってもそれはあたらずとも外れていないかも知れないと思ってしまう。

 

 人間の生死に渉る人生など、所詮この喧噪のごとく止まることない激流の音楽を奏で続けるものだし、生きるための金などもそこら中に牛の糞ほどに転がっているのだが、困ったことには、それを偶然にも踏んでしまうことが出来ない生業水路に世の中は出来ている。それゆえ、この現実はまことにしみったれたものでしかないということになるのだが、そのしみったれた世界の六道の穴に窮々としながら住みついている自分を見渡してみれば、このインドの地で生まれたブッダでなくともいくらなんぼでも、少しはこの世と自分を取り巻く諸行無常の、つまり足掻いたとてままならぬ世間の冷たい実相は見えてくる。

 

 だが、釈迦は諸行無常を諸法実相と覚知するために空観等という観念を我々凡人に悟らせようなどと教えたことはない。そんなのは後世の人間の、或いは今の宗教学者や哲学者の形而上学的思惟が創り出した小乗的机上の詭弁的理論である。釈迦は大学にも研究所にもヒマラヤの奥地などにも逃げてはいかなかった。釈迦はこの世の諸行無常の虚ろな「時」という怪物を捕まえようと、喧噪と貧困の間に生きて、それを体験した人に他ならない。そして心ない万物の流転という現実の法則に対峙した時に、では人間はその生活の坩堝から来る虚無感からいか様にして立ち上がることが出来るか、それが釈迦の頭にあった救世の問いであった筈だ。彼は現実を直視することで立ち上がった。自然の真理を空などと認識したがる人間のおめでたい脳から離れて、肉体と精神の織り成すリアリズムを直視する眼に変えることによって立ち上がったのである。彼の眼力が見た新羅万象の存在の真実をそのままを真摯に人々に語りかける行為から始めたのである。悟りが重要なのではない、悟りとして消極的に物事の事象を受け取るのでなく、能動的に我と宇宙を見極めて行く所、そこに生活に根付いた叡智という仏の力が人間には働くであろう、釈迦はそう考えた。

 ぼくは彼に関する経典を読むたびにそんなことを思う。

  

 こうした釈迦の考えはその後、多様の変化を生んで、多様の似非僧侶と宗派を産み落とした。二千年以上も昔にインドの釈迦によってこのようにして説かれた教えは、その後、実果(悟りを開いた仏の有り難い姿や、その行為の結果しか説かれてない経典)の他力的観念仏教となり空海がそれを利用し、法然にまでいたるのだが、今からおよそ七百年前、やっと我が国の日蓮によって本因(どのようにしたら仏のような境涯を庶民自身が自分の手で得られるのかという、仏そのものが成仏出来得た根本原因を説き明かす)実践哲学仏教として開花されるまでの時間的経緯、学問的考察の歴史は実に長い。

 まずインドの地にあって初めて釈迦によって説かれた法説は弟子たちによって小乗大乗仏教の万巻の教典に結集され、その中の大乗教典「白蓮のように白い教え」がインド人を父に持つ亀慈国の人鳩摩羅什により「妙法蓮華経」という漢文に名訳されたのであった。やがて中国に渡ったこの経は南宋時代、天台山の天才的学僧智凱によって「摩可止観」「法華玄義」などの学説として体系化され、彼はここで「法華経」こそを釈迦所説の万経の中の最高位の実経一乗教典として哲学的な位置づけを行ったのであった。

 やがて宋に渡った我が国の伝教大師がただ一人これを伝承し叡山仏教として開花させたのが平安時代である。だがこの間、中国では天台の天才に組しえない様々な経典異説を唱える宗派が続陸と生まれ、或いは阿含、華厳、法相、律宗、そして亜流の浄土経、禅、果ては日本に空海の大日経等が出来上がてゆき、仏教は世界的混乱期を迎え、あるものはそのまま今日まで学者や哲学者共の頭脳に住み着き、多義多宗の解釈に混迷を深めている。そんな中にあって、末法の初め、他国侵逼の難、自界本逆難や貧困災害に庶民が悩んでいた鎌倉時代に登場した日蓮は、その釈迦から始まる仏教の総ての教義を天台のごとくもう一度集約検討し、更に今までの法然や空海の観念的仏教思想を浅学者の誤りと指弾し、遂に法華経を実践的哲学の最高峰として「恩義口伝」一巻にそれを昇華した哲学者として登場したのであった。そして彼は遂に万民救済の為に万物共有の科学的法則に亙る生命絶対の本質を「仏」となし、その仏こそ「我等が胸中の肉塊におわします」と宣言、その仏の境地湧現の方法を「南無妙法蓮華経」の七文字をもって集約命名するに至るのである。

 ぼくはこうした仏教の歴史を多少なりとも研究したにすぎないが、この日蓮の教義を知るに至り、深くその哲学の真理に感銘を覚えた。それは長年の東洋の仏教の落ちいっていた受動的態度の否定であり、今日の親鸞仏教の解釈しか出来得ぬ哲学者、小説家等の浅学を打破するためにも、しいては神の存在否定者としての自分の前に立ち現れた哲学者として、彼こそ真の人間主義哲学の確立提唱者であったということに自分は気づいた。

  ぼくのインド行きの目的のひとつには、教主釈尊の心へ通じる道として、この日蓮が唱えたこの七文字を、実際にこの釈迦生誕の地インドで唱えてみようという実践の試みも含まれていたのである。

 

                        

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 インド最大の賑わいあるボンベイを発つと、ぼくはおんぼろ飛行機に揺られて、グジャラート州の最西端、パキスタンとの国境に隣接して広がるカッチ砂漠の中に舞い降りた。いや、荷物ごとほっぽり出されたというべきか。とにかくぼくは砂漠の方に行って見たかった。カッチ、タールといった広大な砂漠地帯はヒマラヤやネパールとは反対側の西インドの上のほうに位置していた。そこでぼくはまず一番インドの西外れにあるブッジという町を目指したのであった。

 風が吹き込む飛行機が降りた空港にはどこにもターミナルのようなものなぞ見あたらなかった。そこで、ただただ前を行く乗客についてゆくとやがて小さな掘立小屋があり、その前に一台のバスが横づけにされていた。国境警備の目的もあるのだろうか、銃を手にした兵隊が三、四人その前でウロウロしていたが、ぼくの方を見ると「乗れ」といったような仕草を銃肩で示した。ぼくは大急ぎで、小屋の中に投げ込まれていた自分の荷物を探し出し、バスに飛び乗った。

 バスはやがて潅木の林を抜けると、数分で舗装された街道に出て止まった。そして乗客をそこで降すとそのまま空港の方に戻って行ってしまった。そこは小さな広場だった。十人程の男立ちが屯していたが、彼らはこちらを見ると一斉に駆け寄ってきて手をさしだした。ぼくは又、何かをせがまれているのかと思い、自分の荷物をしっかりと抱えた。それがタクシーの客引きだと解るのに手間取っている間に、あたりにいた乗客のインド人達はどこかへ消えてしまっていた。不安に駆られたぼくは、とにかく一台のタクシーに乗るとこう見えてもぼくは少年ではないのだ、もう四十男なのだぞと一人心に叫ぶと、「ブッジ!」と告げた。タクシーは水瓶を頭に乗せた女の群と擦れちがい、水牛に荷車を引かせた男を追い抜き、街道を西に向かって走っていった。

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