top of page

​ヨーロッパ紀行(1981年)

「不良少年と海〜セウタ〜」

images-6.jpeg

 1981年の春、ぼくは海峡を渡る黄色い蝶のように、浮き浮きとしてジブラルタルを渡った。地中海と大西洋、そしてアフリカ大陸とヨーロッパをまさに二分する位置にあるこの海峡は、別名ギリシャ神話の海神の住処という伝説からポセイドンの二柱とも呼ばれて来た。ここを渡れば、もうアフリカだ。そこにセウタという小さな港町がある。町はモロッコに位置するが、ここだけはスペイン領なのである。フラメンコ、特に「カンテ・フォンド」という哀歌とジプシーのルーツを探ろうと言うささやかな試みの仕事で、ぼくたちは南スペインのアンダルシア地方に来ていた。ジプシーはインドがルーツで、そこからアラブ、アフリカを過ぎスペインに渡った種族がいると言われる。ならばヨーロッパの対岸モロッコあたりの音楽の中にもフラメンコの源流はあるだろう、海峡を渡って見ようということになったのである。

images-29.jpeg

 スペイン南端のアルフェシラスという、美しい港町から船は出た。対岸のセウタまで約二時間の船旅である。ヨーロッパとアフリカ大陸間を渡る船というのでこちらは興奮気味だった。古代にあってはあまりにローマが強堅であったため、アフリカからヨーロッパを攻めるには地中海を真横に渡って行くよりも、ローマ支配下とはいえまだ未開の地であったスペイン、フランスへの入り口だったこの海峡を渡るほうが得策であったのだろうか。イタリア征服を試みたカルタゴのハンニバルが、逆襲に出たローマのスキピオが共に渡ったのもこの海峡であった。ムーア人があのアルハンブラ宮殿の若きスペイン王子を攻めるためにも、そしてその後も様々な歴史がこの海峡を舞台にして行き来してきたのである。

  そこで現代であるが、この海峡を繋ぐ船内には異国の観光客らしき人間などまるでいないばかりか、乗客はあるものはスペイン人、あるものはアラブ・モロッコ、そしてジプシーといった人間たちだが、彼らにしてみればこの船は単なる商売上の通勤カーフェリーといったようなものなのか、慣れ切ったもので、その姿はあっけらかんとしたものだった。ところが船が明け暮れぬ空の下を三十分ぐらい進んだ時のこと、船内の一角が突然騒がしくなってきた。タタン、タンという手拍子、ダダ、ダという靴の音、オレ、オレといった叫び声、そこに絞り出すような女の歌声が上がった。ジプシ−の一団が輪になって歌や踊りを始めたのである。彼らは退屈な時間を過ごすにはこれに限るといったふうで、船上はたちまち彼らに誘発された人間たちが作り出すフラメンコの渦になってしまった。何という自由奔放、快活さであろうか。こんなことは日本の通勤フェリーでは起こらない。饗宴は船がアフリカ側に着くまで続いたのである。

 その昔、たしかにジプシー達もこのようにして海峡を渡り、スペインにその熱い血を土着させていったのだろうと思う。今でこそ簡単に渡れる海峡だが、やはりここは巨大な大陸と大陸の間に横たわる海である。この海峡の道を行く旅人は、彼らが後にした故郷の歌をこの海峡の上で歌い、舞い、未知なる大陸に対する思いを馳せたに違いないと想像するのである。

 セウタのホテルに着くと、私たちはモロッコのタンジールから国境を越えてやってくる四人の男たちを待った。待つこと二時間、男たちはトルキスタン人のような帽子を被り、手に手に剥出しになったままの楽器を気楽に携えてやってきた。ルート(リュートの一種)、コンガ、タンバリン、それにヴァイオリンという編成の楽士たちである。彼らはホテルの隣の丘の上で演奏を披露してくれた。その音楽はムジク・アラベ・アンダルシアと呼び、まさにアラブとスペインを混入したサウンドで、これがマカバ・ホンドと呼ばれるアンダルシア古謡の原点かも知れない。

 

 愛は哀しいものなのだ、呼びあうものなのだ・・・娘よ。

 これは年老いた女が語る物語なのさ、

 昔、一人の女がやってきた、ハポネ・セニューラ、

 セウタの港からジブラルタルへ

 

 愛は美しいものなのだ、嗅ぎあうものなのだ・・・娘よ。

 これは年老いた男が語る物語なのさ、

 皆、その娘をカルメンと呼んだ、ハポネ・セニョリー、

 哀しい瞳には海峡の波風、 

 

 このような内容の歌であるらしい。まるでロルカの歌の、メリメのカルメンの物語の源流を語るような詞である。フラメンコは一人で謡うが、我々の歌は全員で謡うと教えてくれると、彼らはスタスタと町の中に紛れ込んでいってしまった。その何気ない姿を見るかぎり、彼らが果たしてスペイン領に国境を越えてやってきたモロッコ人とはどうしても思えない。旅人とは思えない。政治が作った国境はある、しかし彼らには、すくなくとも空気を媒体とする音楽を操る彼らには、土が繋がっていればどこにも歩いて行けるのだいった風にスタスタと行ってしまった。そう言えば、あの船上で音の饗宴を繰り広げていたジプシーたちもまた、この町のどこかに溶け込んで行ってしまたではないか。

 

 思うにこの辺りは国境、宗教、民族などといったものはまことに厳しい掟と規制があることは理解できる。祖父の土地、掠奪、征服されたものと征服したものと。しかし人間の耳というものは実に自由に出来ていて、人間がこうして構築した戦いの掟や、保守的になろうと意識した教育を越えて、その先にあるどうにもならない人間の根本成立ちとしての器官として、普遍的に音というものを受け入れるように思える。なぜなら国籍や民族や血といったものがまったく判別できない音というものは世界中に存在している。その理由を人はよく血が個性を作るという、その血の同種が民族であるという、その血が固有の民族文化を作るという言い方で説明しようとしてきたのである。しかし、それは今日、人間理解のための正しい表現であろうか、とぼくは思うのである。こうした考え方はまったく逆であって、ぼくには血というものは、人間が持つ自由な個性というものの存在を証明することが出来る、わずかひとつの物質でしかないと考える。血が個性を創るのではなく、まず耳、目、口、皮膚といった人間共通の器官が外部を受け入れ、その受け入れしたものを整理しようとする時に必要な引き出しとなるものが個々人の血なのではなかろうかということである。だから、この様々な血の結合が音楽を複雑な民族音楽に仕上げたのではないということである。血のもっと奥にあるもの、DNAのもっと先にある記憶といったようなもの、それがまず直接的に外部から侵入したどんな音や色や香りといったものを素直に受け入れるように出来ているのが人間なのだと思う。つまり血などという国境はこの時点ではまだ存在しないのである、その次に血がこれを個別に選別してゆく・・・こうした過程があってそれが何々文化等と呼ばれるようになるのではないか。ぼくが耳は自由であると言ったのはこういう意味であり、このことが音楽が血の争いをやめさせる起因になったことはあっても、未だ嘗て醜い人間同士の戦を起す原因を作ったことがない理由だと思う。

 ぼくはセウタの町に立ち去って行く、モロッコ人たち、いやアフリカ人、いや人間を見送りながら、彼らの奏でた音楽種類の成立過程は解らなかったが、音楽というものはやはりいいものだと思ったのである。

Unknown-16.jpeg

 セウタについた翌朝、ぼくたちは街の外れの半島にある小さな海辺の村を訪ねようと言うことになった。そこは回教徒たちだけが住む村だと言う。そこにどんな音楽や風俗があるのか。ところが出発する前、ぼくたちは警察からその場所の撮影は危険だ、保証出来ないと通告を受けた。泥棒や人殺しが住む魔窟で、スペイン人はめったにその村に足をいれたことがないというのである。

 ぼくたちは強行した。小さな半島の入り口にさしかかた登り道でぼく達はタクシーを降ろされた。これ以上先に自分は入れないと運転手は言う。そこで撮影隊はぼくを一人荷物の見張り番として残すと、半島の先にある危険地域に入って行ってしまったのである。しばらくすると、

―窓をしめないさい。荷物を狙われる、と運転手が言った。

 ぼくは撮影機材を床に置き換え、急いで窓を閉めた。そしてドア−をロックした。見るとどこから現れたのか三、四人の少年達がぼくの乗ったタクシーに近づいてくる。彼らは小枝のようなものでタートルネックの襟を目元まで持ち上げて、その顔を隠し、手にはチラチラと光る物を振りかざしていた。少年達はタクシーを取りまくと、窓の中を覗いたり、あげくの果てはボンネットの上に寝そべるやつまで現れた。彼らの目は獲物を狙う豹のように爛々と輝いている。

 

 こうした緊迫した時間がどのくらい経ったであろう。撮影隊の動向も心配だった。こんな餓鬼になめられてたまるか、ついにぼくはタクシーの運転手の制止を聞かずに、たまらず外に出た。そして撮影隊が向かった村に向かって早足で坂道を歩き始めた。たちまち背後から少年達がぼくを伺いながらついてくる気配をひしひしと感じた。

 駆けよう、そんな衝動に何度も駆られたが、もしここで走ったら、どうなるか。この坂を登り切ったあたりで、刺されるなとぼくはついに観念した。そしてぼくは坂道の頂上に立ったのでる。

 その瞬間、「あっ」とぼくは固唾を呑んだ。

 ゾクゾクと背中に感じる死の観念と対照的にぼくの目に入ってきたものは、強烈な太陽を浴びて膨大に広がるアフリカの真っ青な海原であった。そしてぼくの足下からその海に向かって埃だらけの一本の白い坂道が続き、その両側の斜面には黄色い色した回教徒の街並みが、やはり燦々と太陽を浴びてひしめき合っていたのであった。

 生きている。ぼくは何かから救われた、いや、何かを突き抜けて、何かに出くわすという感情に初めて満たされた。突如現れたアフリカの海と村は、ぼくの幻想の宗教風景だった。

 ぼくは少年達を振り返った。もう何も恐くなくなっている。初めてぼくは笑った。すると少年達が駆け出してきて、ぼくの隣に並んで共に歩き出したのであった。ぼくは一人の少年からナイフを受け取った。そしてそれを又彼に戻した。それからは彼らはぼくを囲むようにして、村を案内してくれたのである。そこは何という汚れた混沌がひしめきあい、寄り添いあった場所であっただろう。石の家、あばら屋といった貧民窟の羅列、そうした所から顔つきの悪い男たちが出てきて、彼らはぼくを威嚇するように見るのだが、その都度、少年たちが「こいつに手をだすんじゃねえ」と言わんばかりに道を先導してくれるのであった。だが、そんなぼくたちにまったく無頓着に歩きすぎて行く黒衣のイスラム女たちや老人もいる。そして暗い物陰からハットするように向けられる最上美人の娘の視線もある等々・・・。

 後でわかったことなのだが、その頃のスペイン領セウタには二万人のスペイン国籍のアラブ・モロッコ人が居ると言われる。しかし実際は国境を越えてくる者、あるいは労働許可書をのない者たちで、五万人のアラビア人が居るというのである。そうした人はほとんどが職もなく、その結果、当然のごとく暗い裏街道を糧として生きている者たちが少なくない。こうした種類の人間たちの中でも、とくにひどい連中やその家族、老人、子供たちがセウタから追いやられ、ついに住居地として屯した場所がなんとぼくたちが足を踏み入れた村アルフォソンであったのである。まさにここは仕事もない、放浪生活者の人間たちが住み着いた海ぎりぎり沿いの場所なのである。確かに彼らの行く先にはもう海しかない。だが、そこに向かって更に彼らが脱出できるとはぼくには思えなかった。なぜならこの小さな半島の、ほんの外れの土地に彼らはへばりついたように暮らしているのであって、それを引き剥がしてでも出て行こうとする気力、経済力もあるまいと村の様相が語りかけて来るからであった。まさにここにいる人々は最底辺の生活を生きる集団者ということになるだろう。だがこの村の眼前に広がる海の、なんと太陽を浴びて、明るい青さに輝き満ちていることか。もしこの海の輝きがなかったら、それこそ文字通りアルフォソンの村は暗黒の地になってしまうことだろう。ぼくが丘の上で感じたある宗教感覚とは、まさにこのような奈落の暗闇が白日の光明に照らしだされ、それが併存している所から生まれでるものであった。

 これも後でスタッフから聞いた話であるが、ある時この村にスペインの国営テレビの取材が入ったことがあるそうだ。彼らはこの村の様子を政治的に扱い、それがひどくこの村の人間に屈辱的感情を植えつけた為に、それ以降彼らはカメラを持った人間に懐疑の目を向け、容易に取材を許さなかったというのである。我々音楽隊はこの村を取材したが、帰国後この村の様子は放送しなかった。そこではテーマである音楽を聞くことが出来なかったからである。代わりにぼくたちが聞いたのは誤解という産物の作り出す喧騒、そして表面的な威嚇といった怒声のようなものであった。だが、現地人ですら足を踏み入れないこの村の少年たちが見せてくれた態度は、ひとたび理解しあえれば友人のように、ひとたび間違えれば集団的暴力も起こりかねないといった、いわば追い詰められた人間の心に生じる表裏の二面性の精神であった。彼らはほとんどがヘロイン常習者であった。しかし子供、老人、あるいは深い悲しみを背負った母親たち・・・こうした人々の姿の中には「とにかく騒ぎはよしておくれ。」といった平和主義者の顔を見ることが出来る。

 タクシーに戻ると、ぼくたちを心配した運転手が呼んだのか、二台のパトカーがいた。ぼくたちは街に戻り「命の保障もなかったのだぞ」と怒られながら調書を取られた。ぼくはポケットに小さなナイフを忍ばせていた。帰り際に一人の少年がそっとくれたものだった。

bottom of page