日々の泡
感想
(1)
「侮辱に悪影響を受けるのは、侮辱に感染しているのだ」ジャン・コクトー
心の豊かな人間は、姿に隙がない。余裕のない人間は隙だらけだ。
ひたすら歩けよ。そうすれば着くよ。目的地は在るのでは無く、現れるものだよ。
(2016年11月)
色気とは心から生まれて、姿に現れるものだ。姿に現れぬ色気などあっても、意味がない。
人間の心には、モノに近づこうとする心と、モノから離れようとする心がある。
これを、どう扱うかだ。
(2016年11月)
「若いとき旅をしなければ、老いてからの物語がない」とジャン・コクトーは言った。
僕は老いて、まだ旅をしている。さらに老いてからの、物語を作るために。
面白くないと人間だと思われて、仕事や役を貰えない事があるだろう。
だがそれは、その人間が実は面白い人間だと言う事に気づこうとしない身勝手な人間が安易に下す、愛のない誤診による。
(2016年12月15日)
距離の間に、言葉と言葉は存在する。物語はその隙間から、紡ぎ出される。
老熟青春
過ぎ行く始まり。
何を成すのも、成せるのも、ひたすらに「愚直」でなくてはならない。それを辞めさせようと、そんな言葉があるとしたらだが、それは「賢曲」な生き方である。いらないことだ。
今ではないけど、ある日、ある時。
花宴屏風
二天翁、夕暮れて、白。
月と冬の童話
「不染世間法 如蓮華在水」
夕方、今日が親父の命日だと気がついた。しかも今日の自分と同い年であったことにも。
「そうか、この歳で、親父はもう死んで行ったか・・・」の想いがしきりだ。あれから37年。
面影は掠れる。母に比べて親父とはそういう存在かも知れぬ。ただ、親父の思想は自分の中に生きてるようだ。
船は征く。
友の密葬、風邪の熱、梅雨空の溜息・・・。
いろいろあるが、払拭して、飛び出す。
何度も言ってきたことの繰り返し。
何度でも言うが良い。
迷宮の港街。
誰か、通り過ぎていった気がする。
野原で、ふと見かけた花を摘んできた。
日曜日の午後。
(2017年4月10日)
感想 月と星
世界中の人間が見ようと思えば差別なく見ることが出来、また気の遠くなるような時代の時間を超えて誰もがそれを今と同じように嘗て「見た事がある」という共同体験を思い出させてくれるもの。
それが、夜の「月」だ。
やがて死にゆく僕の月を、昨日生まれたばかりの赤児の目が明日見る、シーザーの目で、キリストの、孔子の、モーツァルトの、信長の、龍馬の、鏡花の、その目に宿ったであろう月が変わらず今の僕の前にある。
時代を超えて人間が同じものを見れるもの、それが月と星だ。
そうしてもうひとつ、それを眺めていた個々の人間の心の中にあったであろう、郷愁と言う平和な気持を想う。 今ではないけど、ある日、ある時。
こんな事聞いたら恥ずかしな、みんなに笑われる、こんなこと聞いたら、そんなことも知らなかったのかと言われそうだ。
そんな風に思ってつい言い出せない質問こそが、実は一番肝心な重要な質問であることが多い。基本を曖昧にして、知ったかぶった質問が一番良くない。
ああかな、こうかなと考え、遂に分からず質問してみる質問が一番正しい。何故ならその人は分かろうと、自分の疑問と一生懸命戦う努力をした結果、分からないので人に質問する事になる。すでに答えを得られる道を持っているのである。
分からないことは何も考えずに、人に聞いてみれば人が教えてくれるだろうという手抜きな根性が一番間違った質問である。努力しない質問が一番たちが悪い。 質問とは、自己探求である。探求したから答えが得られるのだ。
正月五日目
もう少し休んでいたいが、世間の動きも気になるし、乗り遅れてもいけないと、どこかソワソワの気分の日だ!
昨日、眼を擦り、窓の外を見上げたら、「快晴!」と叫びたくなる空があった。
心に広がる意味を持つ言葉「快晴」、心に弾ける音的響きをもった「快晴」。
日本人は自然の姿を文字に形象化する美しい言語表現力を持っている。日本人は自然の姿や感情を自分の感性に喩え、それを音的文字に形象化する美しい言語表現力を持っている。心は文字となり、文字は絵となり、絵はやがて感性に訴える音となるものだ。そこに象徴という、詩が生まれた。
だが、例えば今日の世の歌にはこの「象徴」がない。馬鹿な作詞家どもが「歌」という感情をバーゲン「量」にかえてしまい、「言語」を感情の伝達作業の手段で有ればいいとして無味乾燥なものにしてしまった。言葉で心の物語を作れない児童が、他人と似たような歌の歌詞を作っているのに気づかずに得意がっているような様相だ。歌っている人間が違えば他人の詞と似たような表現も、それは自分のオリジナルだと自分を省みないシンガーソングライターの歌が流行っている。彼らを応援する音楽メディア人の言語理解力が稚拙であるから仕方ないのかもしれない。阿久悠さんのような詞を書ける歌の物語作家は、もう出ないのだろか。演歌の作詞家に期待する今年だ。
映画「そろそろ音楽はをやめようと思う」
渋谷で「GABGAB」と言う小さなロックライブバーを経営しているシンガーの千葉大輔(元バッキンガム宮殿/私の事務所の所属アーティストだった)が出演・監修している映画を下北沢で見てきた。なんだろ、低予算だし映像処理も荒いし、物語も陳腐なのだが、何ともNICE!なんだな。それは「今」が描かれているからだ。
夢はあるが、今ではライブハウスにも出れない様なギター一本の全く素人の中年ロッカーと元役者志望だった夫婦、人も集まらないストリート演奏やってる若者とたった一人のファンの女、この2組の男女の日常が、淡々とドキュメントされてる映画だ。誰もが自分の周囲にカメラを回せば、すぐ撮れるような、どこにも落ちてる現代の若者たちの青春の日常が描かれている。
監督に衒いがない、役者の自然な台詞が秀逸。だから小さな喜怒哀楽が寄り添うように、見る者に沁みる。
40名ぐらいで一杯の会場には立ち見が出る盛況ぶり。見終わって外に出れば、そこは今見た映画の舞台の下北沢だ。歩いてる若者すべてが、何かを抱えた主役に見える青春の街を歩いて改札に向かった。
若者のためにライブの場を提供している千葉ならではの温かみある映画だったよ。演技も歌も良かったな!
千葉、今度は、俺の舞台一緒にやろうな!
(2018年)
やり遂げようと決意する、その根幹にあるものはその目的に対する愛情がなきゃ無理だ。金がないから止めようと言う打算が愛情を上回った時、人間は損をしない平凡な人生を選ぶ事になるね。
愛とは損する覚悟だよ。
成城石井で「セーラー・ジェリー」と言うラム酒を買った。ヤクザな刺青師ノーマン・コリンズと言う男が愛した酒とか。昔、コペンハーゲンの港に行った時、入れ墨屋が目についた。港の女の名前を腕に入れて航海に出る船乗り用だと言う。でも、この刺青、やがて薄くなって消えてしまう。すると違う港で、男の腕には違う女の名前が彫られていると言う次第。
浮気な酒だなぁ。今は、外は秋雨、ランプ、これはセビリアで買ったもの。ラム酒には似合う灯。
芸術と実生活。
良質は少量しか生み出さないが、悪質は大量を生み出す。
嘗て詩人A・ランボウは現代の「我々の欲望には、優れた音楽が欠けている」と謳った。
* * *
いわゆるオリジナリティーの欠如ということだろうか。優れた音楽とは必ずしも金をかけた条件から生まれた作品ではない。
大切な事は「我々』が動物とは違い人間であることのための必要条件「欲望」には、「優れた音楽」を求める習性が元来存在している、ということを認識することであって、自分を取り巻く制作状況を嘆くのではなく、自分の心の中に豊かな音を求める欲望があるのか、美しいと思う音の発見への強い信仰があるのか、このことを我々はまず再検討、反省することが最重要に思える。
オリジナリティとはその人間の欲望・感性に宿るものだ。従ってそれらの働きの薄い人間には、強いオリジナリティは作り出せまい。音楽家、役者、画家等、物を生み出そうとする人間に当てはまる詩人の言葉だと思う。
僕と言う細胞が滅亡する、痺れる予感。
階段に流れ込む朝日に下流する
パイプの煙に、壊れた自転車の空回りな車輪が笑い転げる。
僕は見る。
逆走する疲れへと、朝のウイスキーへのキッス。
もう充分だろうか、
「これで?」
堆積し続ける質問へ問う質問。
「これで?」
物質−精神=ボエミアン
たった今、通り過ぎた揺りかごに眠る赤児の意識ある無意識の掌の合図が僕を生んだのだ。
僕はそうして、透明な青空の宗教になる。
死とは僕と言う質問が、この世からなくなる事だ。
若い者はこちら側から数えてモノを考える。
年寄りはあちら側から数えてモノを考える。
それが生死感だなぁ。