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 ペロンがジャンヌ・ダルクの姿を実際に目にしたのは、忘れもしない、それはシアンから救援派遣された彼女の到着を一目見ようと群がるオルレアン市民に混じって、彼自身も興奮した心を抑えることが出来ないまま街はずれのブルゴーニュ門に駆けつけていった、つい先週の夜のことであった。

 娘がシャルル王太子に会い、神の声を伝え、オルレアン解放に行かせて欲しいと嘆願したり、その為に彼女が王太子に示した神秘的な啓示、さらにはポワティエ城に送られそこで処女であるかどうか、悪魔に犯された魔女ではないか等の宗教審問委員からの屈辱的肉体調査や質疑を受けたことなど、この不思議な娘に纏わる数々の噂は陥落寸前のオルレアンの庶民の耳にもたえず早馬によって届いていた。

 人々は戦争のもたらす多くの苦悩や心配や苦痛を抱えていたし、明日にも生命や財産までが失われると怯えていたから、この娘の出現は神が遣わされた平和への救いであるということを疑いたくなかった。そこで娘に期待する愛情の眼差しは信徒が神に疑いを挟まないように、庶民は乙女のオルレアン到着以前に格別な期待をすでに彼女に寄せていたのである。

 しかしシャルル王太子を取り囲む王侯諸侯や教会の大司教などにとっては、それはそう簡単には認めることの出来ない難問だった。

 彼らは当初、この突然目の前に現れた弱冠十七歳の小娘の口から発せられる神の救国という言葉をまったく疑った。自分たちのような大人で様々な武勲もある諸侯、ローマカトリック教会からの使徒でありパリでの神学哲学を修した教養溢れる宗教人、こうした名だたる貴族社会の官僚や僧侶や騎士たちが頭をすり寄せても手を焼くようなオルレアンの窮状を、どこの馬の骨かも知れない一介の農夫の娘の予言に乗せられて、この難局を打開できる訳がないと考えるのは、むしろ当然なことであった。

 

 僧侶たちは思った。娘の言動は笑止なことである。第一、それは自分たちの立場と面子に関わる問題でもある。神のお告げを直に聞いているなどという、異端者じみたことを平然と口走るこの娘を教会の司教たる自分たちはそうやすやすと信じる訳にはいかない。一歩間違えればそれは神を欺く悪魔の声に自分たちが加担した異端行為にもなり兼ねない。この娘は悪魔に誑かされた魔女かもしれないではないか、まずはこう誰もが疑いの眼を注いだのであった。

 

 一方、歴戦の騎士たちは、娘の話を逼塞した宮廷の気晴らしの座興程度に聞いてみてもいいが、戦闘経験はおろか、刃物さえ扱えないようなこんな百姓の小娘の指示などどうして素直に受け入れられるだろうか。   

 こうした様々な思惑が宮廷にいる大方の諸侯や司祭たちの心根にはあった。特に戦闘派の最高司令官リシュモンの追放に成功し、いまやフランス政府の官僚世界を一手に掌握していた宰相ラ・トレモイユは、この戦闘的な娘が万が一将兵たちに与えるかも知れない影響を考えると、極度に娘の出現やその言動に警戒心を覚えていた。

 だが窮地に立たされた庶民とはいらぬ協議よりもひとつの光明を掲げる者の方を容易く信じたがるものだ。策がないのなら、無駄口叩くより、とにかく任せて見ろ、という率直な心情がまず働く。

 気弱で、信念のないシャルル王太子の心情もまた、この時ばかりは何故か宰相トレモイユとは反対に働いた。普段極めて冷静な神父のペロンにあっても、この信仰が人一倍篤いと噂のある乙女の予言をこのような切迫した状況の中にあると、どうして疑う必要があるだろうかと考えてみたくなる一人であった。

 こうした様々な憶測と疑義を浴びながらも、ジャンヌはポワティエでの処女証明(もし処女でないのに、神への処女を誓ったなどと口外する者は悪魔に犯された魔女であるという教会の論理)を見事パスし、シャルル王太子自身と、何よりも王子の義母ヨランド王女による強い政略的思惑で補給部隊の派遣と軍の指揮官を形式上任されることになったのだった。

 彼女のオルレアン入城は、未だ敵の手に落ちていないミューズ河の橋からブルゴーニュ門の道に沿って敢行された。

 そこでは凄い騒ぎが巻き起こっていた。夜とあって街の人々は手に手に松明を掲げ、この神通力を持っていると噂される少女の姿を求めてひしめき合い、炎の揺らめきに浮かび上がる城壁の群衆の影はまるでもう敵軍に勝利したかのような騒ぎの坩堝に揺らめいていた。

「援軍だ!援軍だ!」オルレアンの人々は、ようやく動いてくれたフランス軍の到来に歓喜の叫びを挙げた。

 部隊の入城には、まず美しく装った国王軍司令官のドルレアン侯、それに従うオルレアン代官ゴークール、その後からは多くの貴族や武名の高い騎士ーシャルル王太子の従兄弟で、今は幽閉の身のリシュモン伯の甥にあたる美男の噂の高い騎士アランソン侯とその軍隊、赤いマントを羽織った歴戦の豪傑ラ・イール、王太子に寵愛されている傭兵隊長のサントライユ、グラビル、ダルマニヤック等々の勇士、それから従士、隊長や兵士、駐留部隊の武将、傭兵など、これを最後の決戦と集められた綺羅星のようなフランス軍将兵が続いていた。その中にひときわ人の目を惹く美しい鎧に身を纏った若武者がいた。

 

 彼こそはジャンヌのお目付け役として若者の叔父のトレモイユ宰相とシャルル王太子から直接彼女の護衛と参謀の任命を受けていた、弱冠二十二歳の青年騎士ジル・ド・レ、その人であった。しかもその彼に従うのは、アンジュ公領に点在する彼の封地から集められた勇猛な兵士の大部隊であった。

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 さて、肝心な乙女ジャンヌはと言えば、人々はこうした勇壮な男ばかりの武将の中にその様を求め、その姿を見た瞬間、ハッと息を呑んだ。娘は小柄であったが、何よりも驚いたことには女だてらに白馬に堂々と跨り、しかもその上、王太子から贈られた純白の鎧を身に纏い、腰には美しい剣を掃き、その手には百合の花と天主を描いた三角の軍旗を捧げもつという、男勝りの、騎士さながらの出で立ちであったからである。

 それはローマ・カソリック教会から宗教上もっとも厳重に禁められている女性の「男装」化、まさに性の変容のタブーを完全に無視した教会反逆罪とも呼べる姿の出現であった。人々は一瞬、美しい少年騎士がオルレアンの星空の下に現れたかと思った。

 

 しかし良く馬上の人を見れば、それは見まごうことのない、一人の娘の男装した姿に他ならない。人々は現実に見たこともない異端の幻の騎士がこの世に突然現れたかのように、この少女の変装変化の出現に度肝を抜かれた。そして、次の瞬間彼らの心からは、たちまち教会の定めた禁断の掟などは吹き飛んでしまい、得も言えぬ興奮の血潮が何故か、その異装の乙女の姿によって喚起され、まざまざと自分たちの胸中に不思議な勇気が滾るのを覚えたのであった。

 

「ジャンヌ!ジャンヌ!」

 人々は彼女や彼女の馬に少しでも触れようとひしめき合い、口々にその名前を呼び叫ぶと、広場は大きな歓声に包まれ、大騒ぎとなった。当のペロン神父はこうした興奮した群衆に巻き込まれながらも、どうにか自分の身分を弁えようとつとめていたが、広場の中央に白馬を駆った異形の少女が進み出て、その手にした主の軍旗を高くロワーヌの夜空の星に掲げた時には、思わず聖女カトリーヌの再誕でもみているかのような錯覚に陥った。彼は胸の十字架に口づけすると、おもわずそれを人頭の間から見える遠くの馬上の娘に向かって、高々と捧げた。

 その時―彼は一瞬、ジャンヌが自分の方を見たように感じた。今や少年のように短く刈った髪型の下で、百合の花のような白い微笑を確かにこちらに向かって投げかけたと思った。

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