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 まずジャンヌ・ダルクに率いられた大規模な補給部隊が組織されるや、予期せぬ彼女の敵への奇襲が効を奏し、フランス軍はサン・ルー砦を奪回すると、まるで将棋倒しのようにオギュスタン砦の攻撃に成功、そしてレ・トゥーレル要塞攻防の激戦の末には、遂には奇跡的ともいえるような大勝利をものにし、わずか数日間で英仏間の形勢を大逆転してしまったのである。その上、敵将グラスデールを、ジャンヌの予言通り水事故で失ってしまったイギリス軍は、まったく戦意を喪失し、今はパリ方面までの退去を余儀なくされてしまっていた。

 こうしてペロン神父の赴任する街オルレアンは長い兵糧攻めの戦から一瞬にして解放され、フランス軍の危機はこのたった一人の「神の娘」の出現によって奇跡的にも救われたのである。

 こうした状況が五月七日、即ちペロンが教会の門の扉を掛け忘れた日の前日のことであった。

 この日を機に、娘の存在はたちまち神秘的なベールに包まれ、まさに神の奇跡を行う者として、その噂はヨーロッパ中の国々に広まっていった。

「神はこの街も、国をも見捨てたもうことは無かった。信仰篤き人々を神は一人の乙女をフランスに使わし、守られたのである」

 祈りの準備を終えたペロン神父の心にいつにない神への感謝と生きている喜びの充足感が満ちあふれたのも、実は昨日までのこうしたひとりの乙女の活躍による歴史的なフランス大勝利という事件が自分の目の前で現実に起こっていたからに他ならない。特に両国の勝敗を決定づけた昨日のレ・トゥーレル要塞奪回にいたっては、さすがに沈着な神父ペロンにとってもそれは信じ難い出来事で、その戦果が彼や街の人びとにもたらした興奮は尋常ではなかった。町中が歓喜の渦となった。教会という教会の鐘が鳴り響く下を多くの行列が行き交い、各所で盛大なミサが執り行われた。ペロン自身も熱に浮かされたように昨夜は遅くまで礼拝堂を訪れた人々に祝福を与え、彼らと共に戦勝の喜びを分かち合ったものだ。ついうっかりと教会の戸の鍵を掛け忘れてしまった原因の元と言えば、すべてはこのような前代未聞の戦勝による大きな喜びに浮かれた祝祭の結果だったのである。

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 「神よ、私の過ちと、この心の怠惰を、お許し下さい!たとえ何があったとしても・・・まだ私の心の修練は未熟です」

 扉の錠を忘れたことをともあれ悔い、ペロンは十字を切ると、聖堂の像に向かって恭しく頭をたれた。それから、こんな早朝に一体何の用で教会に尋ねて来るような者がいるのだろうかと、彼の思考はすぐにもそのことに戻った。

 第一、こんなに早く教会を訪れるのは、尋常な村人や婦女子などのすることではない。かといって高貴な貴族の奥方のまさかのお忍びとも思えない。とすればやはり野盗とか傭兵の手下どもではないだろうか。

 彼の脳裏にその時横切った思いは、イギリス軍に襲われ、略奪や強姦の憂き目をみた多くの尼僧院があったという、戦がもたらした人間の残虐非道の生々しい事件の記憶であった。 

 それのみかオルレアンの街には籠城軍の武将や兵士、スコットランド人の援軍兵士、各方面への伝令士、イギリス軍のスパイ、盗賊まがいの乱暴狼藉を働く傭兵やそれに寄り添うように着いてくる娼婦の群れなど様々な怪しげな人間が出入りしていて、特にこの一ヶ月の両軍の激しい攻防には恐ろしい武器を携えた者や危険な臭いをまき散らした男どもが大勢滞在していた。しかも百姓や商人や職人といった普通の庶民を除けば、傭兵は言うに及ばず、上は貴族と名乗る諸侯から武人にいたるまで、戦に明け暮れる者のすべてが一皮剥けばみんな野盗盗賊もどきの略奪を生業として生きてきた獰猛な種類の人間たちである。たとえ味方が勝利したとは言え、隙を見せたならばいつ何時人々の身の上に命におよぶような危険が迫ってくるか知れないような状況が、まだ戦乱の日々の街には充満していたのである。

 ペロンは気を引き締めると、光の差し込んでくる方に向かってゆっくりと首を巡らし、聖堂の扉の方へわずかに歩み寄った。

 再び、扉の軋む音がした。その時、彼がそこに認めたものは、教会堂の外に溢れ始めた朝の光の反射の白い眩しさを背にして立っている、ひとつの人影であった。逆光、しかも尖った深い頭巾のあるマントでも羽織っているのであろうか、円錐形のように扉の中央に浮かび上がった その黒い影の正体が一体何者であるのか、彼には予測することも出来なかった。

「どなたですかな?」

 ペロンはいくらか語気を強めて、こう影の者に向かって問い糺してみた。その瞬間、

「誰か、そこにいるのか!」

 入り口に立った人影からも、荒々しい言葉が返ってきた。と、同時に、その黒い影は突然小走りになって、光の筋の上を神父めがけてまっすぐに突進してきたかと思うと、「アッ!」と叫び声をあげ、思わず身をのけぞらせたペロンの脇をやりすごすと、そのまますぐ目の前の床につんのめるように跪づき・・・影の者は祭壇のイエスの像に向かって、ただひたすら黙祷を捧げ始めたのである。

 あまりの突飛なこの出来事にペロンはただ唖然としてその場に立ちつくし、ひとことも口を開くことが出来なかった。そうした状態がしばらく続いたであろうか。やがて、

「神父様、驚かせて申し訳ありませんでした。どうぞこのような私の無礼をお許しになり、私に朝の告解と、聖体の秘蹟を受けさせてはいただけないでしょうか」

 じっと蹲ったまま礼拝を続けていた者の声が、堰を切ったように堂内に響き渡った。ペロンは凍結した夢から覚めたばかりの人間のように、思わず目をキョロキョロと四方に動かした。言葉の意味が予期もしない申し出であったばかりか、その声は入り口で発せられた乱暴な調子とはうって変わって、あまりに丁寧で、しかも声の質が先ほどとは明らかに違っている。

 ホッと安堵に胸を撫でおろすと同時に、彼は新たな驚きを覚えた。

 てっきりどこかの怪しげな男と思っていたのに、その声の正体が実はまだうら若い娘のものであるということが、今、はっきりと解ったからである。

「うん、うん、よかろうとも・・・、しかし、こんなに朝が早いというのに、お前のような、その若い娘がどこから迷いこんできたのだね」

 自分の胸の動悸を悟られまいとして、息を深く吸うと、ペロンはこの突然の訪問者の質問に対しまるで迷子の仔羊を諭すように話しかけてみた。すると、じっと蹲ったまま動かなかった娘の身体が、急に大きな黒い鼠にでも化けたか、今度は床の上をスルスルと滑るように移動したかとおもうと、あっというまにその姿は告解用の小部屋の扉の中に消えてしまっていた。

「何とも、身のこなしのすばしっこいことだ・・・」

 二度も自分を驚かせた娘の行動に舌を巻くとともに、長い戦によって肝の座り具合が知らない内に情けないほど動揺しやすくなっていることに多少の腹立しさを覚えたのであろう。ペロンは思わず自嘲ともいえる薄笑いを浮かべずにはいられなかった。 

 それにしても、戦の後のこんな朝早くにやってくるとはよほどの子細があってのことに違いない。彼はこの得体の知れない訪問者の心中を推し量ってみた。

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