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 ステンドグラスを透かして遊びに来ていた光の天使たちは、色彩の羽根の影を濃く染めだし、今や祭壇のイエスの御足の方に向かってその艶めかしい舞を始めようとしている。

「司祭様!」

 その声の毅然とした響きにハッとして、ペロンは告解室の目の前にいる娘の顔を凝視した。今はすでに頭巾のかぶりを解いて、じっとうつむいたままの娘の短い金髪が揺れたかと思うと、蝋燭の明かりに照りかえったその瞳には優しく光るものが今にも溢れ出さんばかりにたまっている。一瞬、どこか見覚えのある顔立ちだ、と彼は思った。だが、娘はそんなこちらの詮索など気にとめる様子もなく、

「私はこうして神父様にお会いできた喜びと、私の告白を聞いていただきます嬉しさに、今は、なんの臆病の心もなく、胸の底から来る真実の勇気の気持ちに打ち震えているのです」こう、せわしげに告げた。

「貴方の御心に、神のお恵みがあらせられますように」ペロンは、十字を切った。

 だが、娘の発した次の言葉を聞くと、彼は再び口が開いたまま、しばらくは何も言えなくなってしまっていた。

「神父様、隠すことなく申し上げます。私の名前は乙女ジャンヌと言います」娘は、確かにこう、その名を告げたのである。何と馬鹿げたことを、この娘は言い出したものか!乙女ジャンヌだと!

「そうです、フランスに来てからはジャンヌ・ラ・ピュセルと呼ばれ、そのように名乗っています。生まれ故郷のドンレミではジャネットと呼ばれていました」

「嘘を・・・嘘を、その・・・冗談は神の前では通じませんぞ」この唐突な、あまりに信じがたい名乗り出に呆気をとられて、思わずペロンの喉から出たのは引きつったような叫び声であった。

「娘よ、人を誑かせることは、大いなる罪ですぞ!」

「ええ、知っています。でも、本当です。神父様には、私の言うことを信じては頂けませんか?」

「その、信じろと言われても、そうのっけから・・・たしかそう、ジャネットとか言ったね。それはどうやら本当のことだろうと思うのだが、まさかその本人が・・・」

「その、まさかの、私はジャンヌ・ラ・ピュセルなのです」

 ふたたび娘の告げた名前を聞いてペロンの胸を襲った驚きは、それまでの自分の人生には起こりえなかった種類のものであった。ジャンヌと名乗るこの目の前の娘の話が本当ならそれは信じられないような出来事であるからだ。ジャンヌ・ダルクがこの陥落寸前のオルレアンの要塞に多くの武将と救援物資を携えてブロワから駆けつけ、昨日までの戦で奇跡的な大勝利をもたらし、今もこの街に滞在しているということはペロンならずとも誰もが知っていることだ。その娘に寄せる人々の熱い想いは街中で今一番の関心事に違いない。しかしその当の本人がまさか激しい戦闘の翌日の、しかもこんな早朝に、町はずれの鄙びた教会なぞに突然現れるわけがない。

 本物のジャンヌは今頃は確か城中か、ルナール門のそばのオルレアン侯主計官ジャック・ブーシェの立派な館に滞在しているはずだし、彼女が教会に行くとすれば街の大聖堂かル・バタール公の居城の礼拝堂のどちらかだとも聞いている。しかも彼女には専門の聴聞師ジャン・パスクレルと言う身分の高い僧侶がいつも付き添っているという事までペロンは仲間の司祭から聞かされていたのである。今や衆目を一身に浴び、人々の手の届かない場所にいる華々しい英雄、しかもフランス王国の歴史にその名を刻みかけ、神の使いと人々から称えられている不思議な天使の娘が、たとえこの街の同じ空の下に滞在しているとは言え、まさかこんな貧相な寺の無名の僧侶に向かって告解を聞いて欲しい等と言って現れるわけがない。それこそ奇跡に近い話で、どうして目の前の娘の話など容易く信じる事が出来よう。

「ジャンヌ・・・ウーン」ペロンはため息をつかずにはいられなかった。

「やはり、神父様にも信じて頂けませんか!」

 執拗な娘の問いかけに対し、ペロンはただ口をつぐむしかなかった。

 そうだ、ジャンヌなどという名前は何処にもある、ごくありふれた名前だし、その通称はジャネットであるから、その事はこの娘が自分を呼ぶ名のとおりで、正しい事実であろう、ふとペロンは考えた。

 とすればあの不思議な乙女の到着でわき起こったこの街の庶民の喧噪と異様とも言える興奮が巻き起こした熱病で、自分をつい本物のジャンヌ・ダルクと思いこんでしまった気の触れた村娘ジャネットが現れたとしても不思議ではない。それはあり得そうな話だし、そんな娘がいたならばその心の高揚を冷ましてあげるのもまた聖職者の勤めであるまいか、そうペロンは思い直した。それならば本物のジャンヌのもたらした熱病に当てられた村娘の面相には果たしてどのよう異変が顕れるものか、まずこの際、よく見極めたいものだ。ペロンは眼前の娘の顔をもう一度まじまじと見つめてみた。

「私を、信じてはいただけないでしょうか!」娘は哀願するように、さらに言い放った。

 その表情をよく見れば、ペロンの予測に反し、娘の顔には意志の強そうな鼻筋が通っており、しかもちょっと愛くるしく跳ね上がった鼻頭の線がこの娘にある種の人間味のある親しみすら与えている。その上どこかもの悲しい色をたたえた口元には、そこらの同じ年頃の村娘には持ち合わせていないような得も言えぬ利発さと意志の強さを示す線が浮かびあがり、なによりもペロンの心を打ったのは、何かに取り憑かれたような血走った目でもなければ、自分を見失って所在なげにさまようどんよりした虚ろげな瞳とはほど遠い、娘の目のしっかりとした精彩を放つ瞳の輝きだった。

 泉の底でも覗いているかのように青く澄んだ瞳の深さ、清々しいまでに朗らかな目元のくっきりとした形状、そこにはまだ何者にも犯されたことのない娘の、処女だけがもつ混じり気のない純潔さと、それ故に起きる怯えにも似た戸惑いの色も宿っている。こうした娘の顔貌を見るにつけ、この娘に何らかの頭の異変を認めることは、変質者や精神病とも思える多くの変人と接してきた聖職者ペロンの経験的直感にとって、余りに食い違っていた。

 第一に娘の美しく並んだ白い歯をみれば、そこからこぼれ出た言葉の中に、嘘で被うような虚飾の黴菌など見いだすことすら困難なように思えてきた。

 美しい、しかしどこか男の子のようだ!この娘は本当にあの乙女ジャンヌであるまいか?

 ペロンの脳裏にこの時、つい数日前のある光景が鮮やかに蘇った。

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