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「ジャンヌ!ジャンヌ!」と、二人の騎士が呼んでいるのが、彼女には聞こえていた。自分が抱きかかえられていく傍らを、反対方向に味方の兵士達が咆哮しながら敵陣に突進してゆくのも解った。

「大丈夫だ、大丈夫だ」といいながらも泣き続けるジャンヌを、彼らは戦場から少し離れた小高い丘の草むらまで運び、そこで彼女は横にされた。

「大した傷ではない、ジャンヌ、しっかりしろ」歴戦の勇士ラ・イールはこう叫びながら彼女の鎧を取ると、何の衒いもなく若いジャンヌの胸を露わに開いて、その傷口をのぞきこんだ。まるで怒りに燃えた雷神のように。

「わかってる、こんな傷が何だ!」それは、余りに急なことであった。胸を隠すことも出来ないまま、彼女は自分の心を掠めた乙女の羞恥を打擲するかのように、ラ・イールに向かって叫び返した。

「すぐ良くなる。だから、もう泣くな!」傍らにいたもう一人の騎士ジル・ド・レが美しい蒼白な顔を、今は朱に染めて怒鳴った。

「痛くて、泣いているのではないのだ!」ジャンヌは、そう答えるのがやっとだった。

「では、勇敢なお前が、何で泣くのだ!」 青年侯爵ジル・ド・レの高揚した瞳が、この時、ジャンヌの涙に濡れた瞳を刺すように熱く注がれていた。

 

*  *  *

 

 

「私が何で泣いたのか、そのようなことがどうして戦場で人に話せたでしょうか。その時の私の想いを神父様、今、私はこうして、お聞き願いたいのです。たしかに私は自分の胸の傷が痛くて実際泣いたのではないのです。私の涙した訳は、私を守って下さるはずの神を、実は・・・私は一瞬疑ってしまったからなのです」

「なに、神を疑ったですと!」ペロンは叫んだ。

「ええ、わかっております、もっと丁寧に、先ほども話しましたことをもっと丁寧に話さなければなりません。実は矢が刺さったとき、何なんなの?という気持ちが最初でした。一体何が起こったの、この私に!それから矢が刺さった、敵の矢が刺さったんだわ!という現実に出会った自覚が声にもならずに沸き起こりました。どうしたっていうの?何故なの、何も悪いことなんかしてないのに・・・・神様、嘘でしょう?まだあなたに言われたお約束・・・オルレアンを解放し、シャルル王太子をランスに伴いフランス国王の戴冠式を行えと仰った、そのすべての使命を私は果たしていないわ、その私が神に見捨てられる訳がないでしょう!あなたは今日私の胸に死への敵矢が刺さるなどとは一言もおっしゃらなかったわ。それなのにどうしてこうして私は敵の矢に刺され、ここで死んでしまわなければならないのですか?嘘でしょう!きっと戦で混乱した私の頭に死の恐怖と共にこうした神への問いかけが一瞬、一瞬とはいえ掠めてしまったのでした。その事にすぐ気づいて、私は愕然としました・・・ええ、自分の神への信頼の弱さに私は驚愕したのです。そうなるともう後は悲しくて、悲しくて私は神さまに済まない想いをなしてしまった、その後悔の念にかられて思わず涙を出し、泣いてしまっていたのです。あたりから一切の音が消えてしまい、恐ろしいほどの無音の空白が襲いました。戦へ戦へと突進する兵隊や武将の姿がまるで時を奪われた者のようにゆっくりゆっくりと私の眼前を流れ過ぎて行きました。でも、それもこれもみんな一瞬の間に私の心の中に起きたことです、あの激しい戦の間の、ほんの一瞬の心の隙間に忍び寄った、そうですわ、死の恐怖につけいった悪魔の囁きなのです。でも、こんな私の瞬時の心の説明を戦友のラ・イール候やジル・ド・レ候にあのような状況では告げようにも、告げられなかったのです。まさか私が神を疑ったゆえに、その懺悔の心で泣いているだなんて!」

「神を疑ったですと!」ペロンは再び、唸った。

「おお、でも、現にあなたはこうして元気でいられる、神は貴方を見捨てなかったではありませんか」

「そうです、冷静になってみれば、それは当たり前なことでした。だからこそ私は神に対する疑いという何という罪深いことを、たとえ、たとえ、一瞬でも思い浮かべしまったのだろうと、昨日から深くその自らの弱い信心の心根に苛まされてきたのです」

 しばらくの沈黙が訪れた。話すほどに興奮してくるジャンヌの荒い息づかいだけが、小さな教会の中を流れていった。やがて、

「ジャンヌ、良くお聞きなさい・・・」ペロンは泣きたくなるほどに胸がつまされながらも、静かに厳格な口調で唇を開いた。

「神の娘よ、神の寛容な御心はお前を許されましょう」と、ペロンは話した。

「私は神に誓って、これからは貴女をわが教会の娘とし、お前と呼ばせてもらうよ。さあ、そこでだ、娘よ、お前はよく気づいたものだ。自分の中にやってきたのが悪魔だたということを。だが、よく考えてご覧!その悪魔だが、そいつはすでに、それこそ一瞬の間にお前の元を去ってしまったではないか。神はお前を信じ、お前よりずーと大きく、しかもユーモアがおありだ。だから悪魔などは相手にされなかった。代わりに神はお前の男勝りの戦いぶりに、しばしの休息をお与えになったのではないかね、神の声はいつも、お前が死に目に会うような無理な戦をしろとは仰らなかったのではないか。どうだね?そして、結局お前たち神の子供、フランス兵士は、立派に勝利し、神のお言葉を証明されたではないか」

「そのとおりですわ!神父様のお話を聞かされて少しは私の気持ちも楽になりました。悪魔は一瞬でした。そうだわ!あの矢は私の信仰をお試しになる、神のくだされた矢だったのかしら?」

「そうです、良く気づかれた!そこに気づかれたなら幸いです。だが、神は試したのではない。神は人間を試したりはなさらない。ただ、お前の信仰がもっと強くなられるように、神は戦場にあっても、どこにあっても、ジャンヌ、あなたと共にいます。そして神を信ずることの難しさへの試練を、たえずお前にお与え下さる。そう思わないか?深い信仰への試練です。そこでおまえの中にあった悪魔はお前に負け、おまえから去ったのです」

「はい!神の声は私に、フランスが今おかれている厄災から人民を救ってやれと仰ったのです。でも神はそのために酷い戦をせよとは決しておっしゃってはいないのです。でも、この世の現実には、そこに信仰のための辛い試練の場が隠されていないわけがないわ。あの矢はそのことを教えて下さるための一矢だったんですね、矢をもって悪魔を祓う」

「そう、人間の愚かな戦などよりも、もっと大きな所に神はおわせるのです。慈悲の矢といえましょう」

「そう言えば、以前、神がフランスを救えとお前にお望みなら、お前にはイギリスとの戦のための兵士たちなど必要ないのではないかと、シャルル王太子の傍らにいる司祭様が私に皮肉ったことがありました」

「なるほど!神の奇跡の真実を貴方に、その僧侶は試めそうとしたのですな、何という皮肉を言う司祭たちだ、彼等こそ神を冒涜している」

 だが、その質問は実はペロン自身もしてみたいものであった。

「それで、ジャンヌ、お前はなんとその司祭に答えたのかね?」

「私は言ってあげたのです。神の御名において兵士たちが戦い、神が勝利を私たちにお授けになるのです。フランスの勝利は、私の意思ではありませんわ、神からの受難によって人々への愛は育つもんだわと」

「素晴らしい答えだ!貴女はそれを証明してみせました。それを忘れないようにしましょう、いいですね、神の矢はこの瞬間からすでにもうお前の胸から去った、ねえ、ジャンヌ、お前の傷はもう癒えよう」

「はい、解りました。私は二度と神を疑うなどということは、いたしません!」

「そうです、神は決っしてお前を見捨てなどはしません!受難こそ愛なのです。これから成し遂げる神の意志の前では。お前はこれから、もっともっと苦しい試練を耐えねばならなくなるかもしれない。しかし、」

「たとえ何があろうとも、私は主を疑わず、主は、決して私を見捨てたりはしないと誓います!」

「そうです!ほら、主は頬笑んでいられる。どうか、この健気なる乙女の懺悔を、神よ、その真心に照らしお許し下さい。ジャンヌ、共に祈りましょう」

 ペロンは、この日、もうその先を聞かなくて良かったのかも知れない。

 こんな告解聴聞の経験は彼にとって、勿論生まれて初めての出来事だった。普段彼が行っている聴聞が聞くに堪えないものばかりだったとは言わない。たえず名も無い下層階級の人々の側に立脚し彼らの愚痴にも近い懺悔話や、朴訥な無知な告白をいちいち聞かされても、告解によって彼らを少しでも正しい神の教えに導きたいと願ってきた彼である。 

 

 だが、今朝のこのジャンヌとの出会いには、何という至福の時が流れたのであろうか。 

 

 たかだか一介の牧師に過ぎない自分が、今やフランス王国の救世主とまで謳われている立場にいる乙女から、その戦場での思わぬ心の秘密を吐露され、神に選ばれたという娘を再びその神の許しまで導き、共に主イエスの御子としての祈りを捧げたのである。そして、今や、「主は決して、私を見捨てたりはしない!」とジャンヌに、こう叫ばさせたではないか!

神の代理人としてこのような重大な仕事を成し遂げた満足感に浸たったまま、ペロンはこの信仰の篤いジャンヌをそのまま戸外に送り出せば良かったのである。

 だが、二人が告解用の小部屋から出た時、「ところで、お前の胸に刺さった矢の事だが、その傷はどうなったのかな?」

 この時は、彼はついこうジャンヌに話しかけてしまったのである。伝えられてくるジャンヌの戦場での活躍を当人の口から直にもう少し聞きたいものだと、そんな好奇の念が今さらながらに心の裡に沸き起こったのも無理のないことであった。目の前にいる娘と戦場のジャンヌとはまるで違った二人の人間のような気がしたし、ジャンヌ自身が人に向かって話をする時、その口振りには時々まるで夢物語でも語るかのような自己陶酔感が現れ、その打ち震える興奮の様が思わず聞く者にある種の興味を抱かせてしまうような特質をこの娘は天性にもっていた。

「神父様、これ以上懺悔するような事態は私の心には起こりませんでした。私は今お話した私の胸に溢れた神への後悔とは裏腹に、もうそれ以上は泣きませんでしたから。ここは戦場なのだという現実がすぐにも私に思い出されたからです。でも、実際の胸の傷のことならこんなことがあったのです」娘の頬に再び、朱がさしてきた。ジャンヌは自ら話し出した。

「ラ・イール殿がジャンヌ、矢を抜くぞ!と言って傍らのジル・ド・レ侯に私の肩を抱きかかえているようにと云ったんです」

「ほほう、ジル・ド・レという騎士にね、それで?」

 

 ペロンは、何気なく口にしたジル・ド・レという名の男が、その後の自分とどんな深い関係になるのか、その時はまったく予測もしていなかった。ましてジル・ド・レが今、自分の目の前にいる健気な娘の存在によって、その後の人生でこの世のものとも思えない残忍な悪魔に変貌させられてゆこうなどとは知る由もなかったのである・・・だがその話はまだ先のことである。

   ともあれジャンヌはペロンの質問に対し簡単に、矢の手当てを受けた時の状況の推移を語ってみせたに過ぎない。

しかしその状況の裏で実は次のようなドラマがジル・ド・レという男の心の中に生起し、そこからこの男を狂わせるような事件が始まろうとしていようとは、この時ペロンはもとよりジャンヌ自身、露とも知らぬことであった。

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