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 そうだ、あの時の少年騎士、いや、乙女に間違いない!

 群衆の頭越しに垣間見たに過ぎないが、ペロンには一瞬のジャンヌ・ダルクの面影を忘れることが出来なかった。

 その記憶の面影が今、彼の頭の中で水の輪のように徐々に拡大されてゆき、まさに彼は目前にあの乙女の幻影が現実のものとなって立ち現れて来るのを見た。あの時は鎧に身を包み、しかも余りに華々しい軍隊や人々の掲げる炎の揺らめきの中にあったから、自分がこうして黒いマントに身を被った娘をその時の勇壮なジャンヌと同一人物だと判断できなかったのも無理のないことであった。

 ペロンは、この時、娘の黒いマントの下に覗いているわずかな素肌の胸元に、白い包帯のようなものが巻かれているのに気づいた。この白布を証拠として、今や彼の推測は、確信に変わっていた。

「ジャンヌ・ラ・ピュセル、貴女にお会い出来て、光栄です!」 

 ペロンは大きく息を吸うと、次の瞬間、こう言い放った。

「まあ!それでは、司祭様は私の言うことを信じて下さったのですね!」

「ええ、先日、城門前で貴女の入城を見たことを今、はっきりと思い出しました」

「あの、オルレアン入城を!」

「はい。しかし、驚きましたな、最初、私は貴女を疑ってしまいました」

「気の触れた娘が入ってきたと!」間髪を入れずに、娘は叫んだ。そして、

「私が現れると誰もが、いつでもそう思うらしいわ!」まるで口癖にでもなっているかのように、ジャンヌはこの言葉を多生の皮肉を交えて言い放った。

「いや、失礼ながらその通りです。しかしまさか本物のジャンヌがこんな小さな教会堂に突然現れるとは思いも寄りませんでしたからね」

「自分が神を信じながら、神を信ずる人を信じることはとても難しいことだということを、私は最近は随分と教わったのです。それも予期しない出来事とあっては格別なことだって」

「いやいや恐れ入りました。仰るとおりです」

「それに私だってこの町へまさか来ようとは、いいえ、今朝にしたって、まさかこの教会を訪れるなんて一度として私自身が想像したこともありませんでしたもの」

 ここへやって来たのは自分の意志ではないのだといった確信の光が一瞬目元に浮かびあがったものの、さすがにジャンヌは少し戸惑いの素振りも見せた。それから、

「神父様、全ては神の思し召しなのです!」と言うと、さらに続けた。

「私は私の行動が神への信頼を他の人から疑われてはならないようにしなければならないと心がけているのです。でも、神父様、私は今の自分の置かれているそんな状況に対して、最近少しいらいらしていたのでしょう」

「それはまた、どんなことでしょう。色々ご苦労もありましょうし、昨日の大勝利の戦では胸に矢まで受けたと言うではありませんか。その包帯はその時の証でしょう?」

「まあ!」 

 ジャンヌは驚いたように自分の胸元を見ると、慌ててマントでそこを隠すような仕草をした。

「この傷は確かに昨日の戦で受けたものです。でも、何でもご存知なんですね、神父様は。」娘は、はにかむように笑った。

「偉い方たちのことは解りません。しかし庶民の間の情報は早く、しかも今や人々は貴方の味方です。庶民こそ貴方のことを一番良く知っているのです」

 ペロンの言葉にジャンヌは何か考え事をするかのようにしばらく沈黙していたが、やがて嬉しそうな顔を神父に向けた。

 

「神父様、貴方はお話が解って頂けそうですね。実は、今日はイエス様の昇天の日の木曜日ということで戦に行くことは辞めるようにと昨日の夜、私はオルレアン公や諸侯に申し入れました。そして今朝、私は鎧を解くと人目を避けるこんな姿で朝から近くの野原にそっと抜け出してきたのです。味方の兵士は昨日までの戦に疲れ、みんなぐっすりと寝込んでいました。私は城壁の周りの草むらに生えているタンポポの中に膝まずくと、朝一番の光を浴びて黄色く輝くお花を捧げて、神に祈りました。そこで私はいつものように天からのお告げを聞いたのです。神父様、貴方は私のこのような話を信じて下さいますか?」

「信じますとも。それが信じられなければ、あなたを今どう扱っっていいものか、神に仕える私としても迷うでしょう。まさにあなたは、天の声を聞かれているのです」

「まあ、嬉しい!こんなことを言ってくださる司祭様がいたなんて!」

「おや、おや!」

「でも、神父様、ひとつ聞いていい?」

「何なりと、どうぞ、ジャンヌ」

「では言うわ。神父様は、シャルル王太子の周りにいる偉い司教様たちみたいに、神の声はどんなことを今朝は言われたのかと私には聞かないの?」

 邪気のない、利発さに輝く少女特有の悪戯っぽい微笑みがジャンヌの顔に浮かんだ。それを見ると、ペロンの心にも不思議な明るさが灯った。

「貴方の行動を見ていればよい、それで神がなにをなさりたいかが解ります。今もこれからも・・・だから私は貴女に向かって、神が聖霊に命じた声のことは聞きません。ジャンヌ、私は貴女を信じましょう。貴女を信じられなければ、神も信じられないことになる。これで宜しいかな?神の声を貴方が行なうのだ。とすれば貴方を認める事が、神を見る事になる。そう、この私はまず何よりもあなたがた信徒の心を信じようと務めるのです、そうせよと神から教わったのです」

 神父は穏やかに、しかし毅然とこう話したのである。

 彼のこの言葉を聞いて、何という娘の、清々しい汚れのない瞳がきらきらと輝いたことだろう。

「ああ、本当に嬉しいわ!信じる者の信念の中にしか真実を現すことは出来ないってことを神父様は教えて下さった!神様はそこにこそ現れるっていう事・・・とても大切なことを教えて下さった!」

 信じる者の、心の中にこそ!信じる者の、心の中にこそ、神はおわす!ジャンヌは何度もそう叫んで、今にもあたりを踊り出すのではないかと見えた。

 その健気な様子を見ていると、あのイギリス軍を相手に勇敢に戦い、勇壮な武将や兵士に囲まれ、威風堂々と入城したあの気高けなジャンヌと同一人物がまさかこの娘なのかと、また違った意味でペロンは新鮮な印象を感じずにはいられなかった。そればかりかペロンはどこにでもいるようなごく普通の村娘が、敬虔な心から神の名を口にするのと何ら変わりのない、ごく平凡な、真っ平らな、清らかな水の流れのような信心をジャンヌの中に見て取っていた。

「私の故郷ドンレミのフロン師とこれで二人目よ、私の話を素直に信じて下さった司祭様は」

「その方の名は、私も耳にしたことがあります」

「まあ!、ああ、私は今日ここに来て本当に良かった。神父様、実は野原で聖霊の声を聞いたとき、この教会の塔がなにかの暗示のように 目に飛び込んできたのです。私の足は知らずの内にここに向かって歩き出していて、気づけばここは故郷の小さな教会堂のような優しい姿で私の前に佇んでいました。それに比べ、宮廷にいるあの司教方はお偉い方達ですが、どうも私の話を信じているようで、どこかで神の声を聞いたなどという私を疑っているのが解ります」

「どこにいようとも、故郷にいるように、誰の前でも素直に何もかも話されれば、いいのです」

「それは聞く側の立場の問題だわ、私は別に普通の農家の娘としてそうしているのに・・・。ただ私は私が聞いている神の御心のままを皆に話をするのに、いざ戦のこととなるとなかなか素直に耳を傾けて下さる方は少ないのです。私がいらいらするのはそんな時です、何故みんなは神の言葉を信じないのかしら、私が口からでまかせでも言っているとおもうのかしら、私の身に起きたそれは私にとっての真実の体験でも、他の人にそれが解らないのも仕方ないことかも知れないのだわ・・・そこで私は神の御言葉通りの行動を起こすしか他ないのです。あの方たちが神の声を疑う以上、私は神の与えて下さった使命の成果を示すしかないのですもの。ですから、私は神の声に従い、一日も早く太子をランスにお連れし、戴冠式をあげなければなりません。そして今日ここに来たのも、その神のご教示の印かと私は思っています」

「頭の良い娘だ、貴女は。確かに神の声を証する、それは大変なことだが、それで宜しい。神は貴方の行いを証して下さり、貴方はその役目を充分に果たしましょう。目的であるランスに行き、皇太子の戴冠式は必ず行なわれるでしょう」

「そうだわ!かならず!」 ジャンヌはペロンの言葉に深く頷くと、しきりと何事かを思案するように見えた。それから、

「だからこそ神父さま、ランス出発の前に今日はぜひとも、そんな私の、誰にも言えない胸の内の懺悔を聞いて欲しいのです!」

「懺悔ですと!」

 乙女の顔からはたちまち今までの晴れやかさはなりを潜め、打って変わって悲しみの色に裏打ちされた真剣な表情が浮かび上がっていた。それにしても、なんと心の色が、そのまま素直にその面にまっすぐと浮かび出る娘だろう、とペロンは思った。それは決して愚かなことではなく、ただずる賢い大人にならない娘の、清潔な心の現れであると。

「貴女ほど神の信仰に素直な娘が、その神に対し今更懺悔しなくてはならないことがあるなんて、驚いたものだ。よろしい、こんな私でもよければ、ジャンヌ、何でも話してご覧なさい。貴女の告解を私は聞きましょう」

 

 ペロンの許しを得て、彼女は、大きく頷いた。それから胸の前で十字を切ると、娘は心に秘めたある出来事をこの初対面の老神父の前で告解し始めたのである。

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